20世紀・シネマ・パラダイス

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John Wayne

ジョン・ウェイン

John Wayne

   
1907-1979 (アメリカ)

   
愛称 : デューク  ( Duke )
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     代表作
 
Stagecoach
 駅馬車
 Stagecoach
 (1939年/アメリカ)
/Red_River-2
 赤い河
 Red  River
 (1948年/アメリカ)
She Wore a Yellow Ribbon
 黄色いリボン
  She Wore a Yellow 
  Ribbon

 (1949年/アメリカ)
The_Quiet_Man
  静かなる男
 The Quiet Man
 
(1952年/アメリカ)
The Searchers
 捜索者
 The Searchers
 
(1956年/アメリカ)
Rio Bravo
 リオ・ブラボー
 Rio Bravo
  (1959年/アメリカ)
True_Grit
 勇気ある追跡
 True Grit
  (1969年/アメリカ)
The Shootist
 ラスト・シューティスト
 The Shootist
  (1976年/アメリカ)

    本国アメリカで人気No.1 ウエスタン・ヒーロー

 ・1907年、アイオワ州生まれ。両親はアイルランド系で、本名は Marion Robert Morrison
 1911年、カリフォルニア州パームデールへ、16年に同州グレンデールへ移住。

 ・いつも愛犬 (エアデール・テリア) の ‟デューク (公爵)” と一緒だったため、隣人が犬を 「リトル・デューク」、彼のことを 「ビッグ・デューク」 と呼ぶようになった。
  彼はその呼び名を気に入り、以来、「デューク」 が愛称 となった。
  (右の写真) 家族と愛犬 ‟デューク一番左がジョン・ウェイン 
with Family

John Wayne-5  ・高校卒業後、海軍士官学校を志願したが入学は叶わなかった。
 高校時代にフットボールのスター選手であった彼は、奨学金を得て南カリフォルニア大学へ入学 (1925年)
  ボディサーフィンで肩を怪我してフットボールが出来なくなり、大学は中退 (1927年) した。
  (左の写真) 学生時代のジョン・ウェイン

 ・大学のフットボールのコーチの知人であった映画スター、トム・ミックスの紹介で、夏休みに大道具・小道具係のアルバイトをし、エキストラで数本の映画に出演した。
 (右の写真) トム・ミックス … サイレント期の西部劇の人気スター。
  ザ・ビートルズの 「サージェント・ペパーズ〜」 のアルバム・ジャ
   ケットにも描かれている。
Tom_Mix-2

 ・大学中退後の1928年からFOX社の撮影所で働き始め、恩師となるジョン・フォード監督と出会った。
 フォード監督の 『マザー・マクリー』、『4人の息子』 (1928年) といった作品にエキストラで出演。
 役者として初めて名前がクレジットされた作品は、ミュージカル 『Words and Music (1929年) だが、この時は 「デューク・モリソン」 という芸名であった。 

The_Big_Trail-3
 ・1930年、大作 『ビッグ・トレイル』(監督:ラオール・ウォルシュの主役に大抜擢。
 ウォルシュ監督は、主役に考えていたゲーリー・クーパーをパラマウント社から借りることが出来ず困っており、相談を受けたジョン・フォード監督が 「デューク」 を紹 介した。
  ウォルシュ監督は、無名の俳優だった「デューク」 を起用することに決め、「ジョン・ウェイン」 の芸名を授けた。アメリカ独立戦争時の将軍アンソニー・ウェインが由来である。
  (左の写真) 『ビッグ・トレイル』 出演時のジョン・ウェイン。当時23歳。
 『ビッグ・トレイル』 は、当時としては革新的な70ミリのフィルムで撮影され、200万ドル超の巨費を投じた超大作だったが、興行的 には失敗作となった。
 スターとなるチャンスを掴み損ねたジョン・ウェインは、2流、3流の映画会社とも契約。コロンビア社の 『The Deceiver (1931年)では死体を演じ、マスコット社、モノグラム社などでB級 (低予算) 西部劇に数多く出演した。
  (右の写真) 『ビッグ・トレイル』  マーゲリット・チャーチルと
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    *  1935年、マスコット、モノグラムなど6社が統合してリパブリック社が誕生。

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 ・1933年、ロス駐在のパナマ領事の娘ジョセフィンと結婚。学時代に知り合い、7年間の交際を経ての結婚だった。
 結婚式は女優ロレッタ・ヤングの家で行われた。
 ジョセフィンとの間で2男2女を授かった。
  (左の写真) 最初の妻ジョセフィンと

 ・1939年、『駅馬車』 (監督:ジョン・フォード) の主役リンゴ・キッド役で、漸くスターの座を掴んだ。
 フォード監督は、自分と同じアイルランド系であり、一向に目が出ない彼のことを気にかけており、撮影時には、「演技しようとは思うな。俺の言う通りに反応 (Reactすればいい 」 とアドバイスしたという。
  (右の写真) 『駅馬車』 クレア・トレヴァーと
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 ・フォード監督とは、ハリウッドでも屈指の黄金コンビとなった。フォード監督はウェインが大スターとなってからも 「木偶の坊」 呼ばわりをしていたそうだが、ウェインは、「ボス (フォード監督) の言うことは絶対だ 」 と従っていた。生涯、固い絆で結ばれた師弟関係であった。
 (左の写真) ジョン・フォード監督と。『アパッチ砦』 (1948年) 撮影時

 ・人気スターとなり、メジャー会社の作品で人気女優と共演するようになったが、契約が残っていたリパブリック社のB級作品にも出演し続けていた。
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Seven_Sinners
『果てなき航路』 (1940年/監督:ジョン・フォード)
ミルドレッド・ナトウィックと

『妖花』 (1940年)
マレーネ・ディートリッヒ

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The Spoilers
『絶海の嵐』 (1942年/監督:セシル・B・デミル
ポーレット・ゴダード
『スポイラース』 (1942年)
マレーネ・ディートリッヒと
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『西部を駆ける恋』(1943年)
 ジーン・アーサー
『コレヒドール戦記』 (1945年/監督:ジョン・フォード)
ドナ・リード、ロバート・モンゴメリー(右)と


 ・政治的には筋金入りの愛国主義者で、タカ派として知られていたジョン・ウェイン。
 第二次世界大 戦中、本人は兵役を望んでいたが、稼ぎ頭を失うことを恐れたリパブリック社が、契約を盾に映画への出演を強要していたとの話もある。
 いずれに しても、兵役に就かなかったことを生涯悔いており、その事がより愛国心を強くしたと言われている。

 ・私生活では、1945年にジョセフィンと離婚し、翌46年に、メキシコ人女優のエスペランザ・バウアーと再婚。
 2人の間に子供はなく、53年に離婚した。
  (右の写真) 2番目の妻エスペランザ・バウアーと

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Angel_and_the_Badman
 ・俳優業だけに留まらず、映画製作、監督業にも携わったが、最初に製作した作品が 『拳銃無宿』 (1947年)
  (左の写真) 『拳銃無宿』 ゲイル・ラッセルと

 ・『駅馬車』 で人気スターとなった後、今一つ作品に恵まれていなかったが、『赤い河』(1948年/監督:ハワード・ホークス の大ヒットにより、人気は更に上昇。
 ジョン・ウェインの黄金時代の幕開けを告げる作品となった。
  (右の写真) 『赤い河』 モンゴメリー・クリフト(左)と
Red_River-3

Fort Apache
3 Godfathers
『アパッチ砦』 (1948年/監督:ジョン・フォード)
 ヘンリー・フォンダ(左)と

『三人の名付親』 (1948年/監督:ジョン・フォード)
ペドロ・アルメンダリス(左)、ハリー・ケリー・ジュニア(右)と

 ・演技力も磨き上げていき、「騎兵隊3部作」 の第2作 『黄色いリボン』 では初老の大尉を、『硫黄島の砂』 (1949年) では鬼軍曹を好演。 『硫黄島の砂』 で初めてアカデミー賞にノミネートされたが、この年のオスカーは 『オール・ザ・キングスメン』 のブロドリック・クロフォードが受賞。ジョン・ウェインがオファーを断った役だった。
She Wore a Yellow Ribbon-2
Sands of Iwo Jima
『黄色いリボン』 (1949年/監督:ジョン・フォード)
『硫黄島の砂』 (1949年/監督:アラン・ドワン)

 ・ジョン・ウェインの銀幕でのベスト・パートーナーと言えばモーリン・オハラ。「騎兵隊3部作」 の第3作 『リオ・グランデの砦』 (1950年) で初共演し、再共演した 『静かなる男』 (1952年) は、非ウエスタンでの彼の代表作となった。
Rio Grande
The Quiet Man-2
『リオ・グランデの砦』 (1950年/監督:ジョン・フォード)
 モーリン・オハラと

『静かなる男』 (1952年/監督:ジョン・フォード)
 モーリン・オハラと


Pilar_Pallete-2
 ・1954年、ペルーの国会議員の娘で女優のパイラー・パレットと3度目の結婚。
 1男2女を授かったが、73年に別居している。
   * 法的には夫婦のままであった。
  (左の写真) 3番目の妻パイラー・パレットと

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