20世紀・シネマ・パラダイス
モーリン・オハラ
Maureen O'Hara
1920- 2015 (アイルランド/アメリカ)
◆
代表作
ノートルダムの傴僂男
The Hunchback of Notre Dame
(1939年/アメリカ)
わが谷は緑なりき
How Green Was My Valley
(1941年/アメリカ)
海の征服者
The Black Swan
(1942年/アメリカ)
三十四丁目の奇蹟
Miracle on 34th Street
(1947年/アメリカ)
静かなる男
The Quiet Man
(1952年/アメリカ)
長い灰色の線
The Long Gray Line
(1955年/アメリカ)
◆
総天然色 <テクニカー> の女王
・
1920年
、アイルランドのダブリン近郊にて、6人兄妹の次女として生まれた。本名は
Maureen FitzSimons
。6歳の時から演技、音楽、ダンスのレッスンを受け、14歳の時に地元の劇団に入り、舞台で活躍した。
・イギリス映画『
Kicking the Moon Around
』
(1938年)
で銀幕デビュー。名優
チャールズ・ロートン
の目に留まり、彼の手引きで2作目『
My Irish Molly
』
(1938年)
に出演。当時は本名で活動していた。
(左の写真)チャールズ・ロートンと
・その後、ロートンがドイツの映画製作者
エリッヒ・ポマー
と設立したメイフラワー社と契約。‟モーリン・オハラ”の芸名を授かり、同社が製作した『巌窟の野獣』
(1939年/監督
アルフレッド・ヒッチコック
)
でヒロインを演じた。
(右の写真)『巌窟の野獣』 チャールズ・ロートンと
・ロートンと共にハリウッドへ渡り、彼が主役の『ノートルダムの傴僂男』
(1939年)
で、ヒロインのエスメラルダを好演。作品は大ヒットし、人気女優の仲間入りを果たした。
(左の写真)『ノートルダムの傴僂男』 チャールズ・ロートンと
・『ノートルダムの傴僂男』の撮影後、第2次世界大戦が勃発し、イギリスでの映画製作が困難となった。ロートンは契約でオハラを縛ることもなく、彼女はメイフラワー社からアメリカのRKO社へ移籍することが出来た。
(右の写真)『ノートルダムの傴僂男』出演時
・RKO社で3本の映画に出演した後、20世紀FOX社で、
ジョン・フォード
監督の
『わが谷は緑なりき』
(1941年)
に出演。作品は大ヒットし、彼女の人気を決定的なものとした。
(左の写真)『わが谷は緑なりき』
ウォルター・ピジョン
と
・私生活では、1939年に映画製作者のジョージ・H・ブラウンと結婚したが、1941年に離婚。同年、映画監督のウィル・プライスと再婚し、1944年に長女を授かったが、1953年に離婚した。
(右の写真)2度目の夫、ウィル・プライスと
・初のカラー(テクニカラー)作品は、当時の夫ウィル・プライスが監督した『トリポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』
(1942年)
。
2作目のカラー作品『海の征服者』
(1942年)
が大ヒット。彼女の見事な赤毛はカラー映えして、‟テクニカラー・クィーン”<総天然色の女王>と呼ばれるようになった。
(左の写真)『海の征服者』
タイロン・パワー
と
・フランスの名匠
ジャン・ルノワール
監督が、ハリウッドで撮った『自由への闘い』
(1943年)
で、恩師のチャールズ・ロートンと共演。最後の共演作品となった。
(右の写真) 『自由への闘い』 チャールズ・ロートンと
『西部の王者』
(1944年/監督:
ウィリアム・A・ウェルマン
)
ジョエル・マクリー
と
『センチメンタル・ジャーニー』(1946年)
ジョン・ペインと
・『三十四丁目の奇蹟』
(1947年)
は、クリスマス映画の定番となり、カラー化もされた人気作。
(左の写真)『三十四丁目の奇蹟』
ナタリー・ウッド
と
・『三十四丁目の奇蹟』で彼女の娘を演じ、青春スターとなってからも彼女の事を「
モーリン・ママ
」と呼んでいたナタリー・ウッドが事故死
(1981年)
?した時は、人目もはばからず号泣したという。
(右の写真) 『三十四丁目の奇蹟』撮影時。ナタリー・ウッドと
・ジョン・フォード監督の騎兵隊3部作の第3作目『リオ・グランデの砦』
(1950年)
で、
ジョン・ウェイン
と初共演。
(左の写真)『リオ・グランデの砦』 ジョン・ウェインと
・ジョン・フォード監督はアイリッシュの俳優を好んで起用したが、彼女もその1人。『わが谷は緑なりき』、『リオ・グランデの砦』、
『静かなる男』
、『長い灰色の線』、『荒鷲の翼』の5作品に出演。フォード監督作品の代表的なヒロインでもあった。
(右の写真) 『静かなる男』 撮影時。ジョン・フォード監督と
・彼女の母国アイルランドを舞台にした『静かなる男』
(1952年/監督:ジョン・フォード)
は、本人のお気に入りの作品。
ジョン・ウェインとの嵐の中のキス・シーンが有名。『E.T.』
(1982年/監督:スティーヴン・スピルバーグ)
の中で使用された。
(左の写真)『静かなる男』 ジョン・ウェインと
・ジョン・ウェインとは、『リオ・グランデの砦』、『静かなる男』の後、『荒鷲の翼』、『マクリントック』、『100万ドルの血斗』で共演。デュークの銀幕でのベスト・パートナーだった。
『荒鷲の翼』(1956年)
『マクリントック』(1963年)
・ジョン・ウェインが亡くなった後、彼に大統領自由勲章が授けられるように、俳優仲間たちと奔走もした。
(右の写真)『静かなる男』撮影時。ジョン・ウェインと
『長い灰色の線』(1955年/監督:ジョン・フォード)
タイロン・パワーと
『罠にかかったパパとママ』(1961年)
ヘイリー・ミルズ
と
『H氏のバケーション』(1962年)
ジェームズ・ステュアート
と
『スペンサーの山』(1963年)
ヘンリー・フォンダ
と
・ブロードウェイのミュージカル「
Christina
」
(1960年)
やTVでは、その見事な歌声も披露した。
・1968年、航空会社の経営者チャールズ・F・ブレアーと再婚。1978年に彼が飛行機事故で亡くなるまで連れ添った。
(左の写真)3度目の夫、チャールズ・F・ブレアーと
・ヘンリー・フォンダと共演したTVドラマ「赤い仔馬」
(1973年)
を最後に芸能界から引退。
(右の写真)TV「赤い仔馬」 ヘンリー・フォンダと
・『オンリー・ザ・ロンリー』
(1991年)
で、劇場用映画としては『100万ドルの血斗』以来、20年ぶりに銀幕復帰。その後もTVドラマで活躍した。
(左の写真)『オンリー・ザ・ロンリー』 ジョン・キャンディと
・2014年、アカデミー賞名誉賞を受賞。
演技賞部門でノミネートされたことがない女優の名誉賞受賞は、
マーナ・ロイ
に次いで2人目。
授賞式のスピーチでは、チャールズ・ロートン、ジョン・フォード、ジョン・ウェインの3人の名前を挙げて、感謝の言葉を捧げた。
(右の写真)同じく名誉賞を受賞した
アニメ映画の巨匠・
宮崎駿監督と
アカデミー賞名誉賞の授賞式。プレゼンターはクリント・イーストウッドとリーアム・ニーソン。
・
2015年
、
95歳
で他界。
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