20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
Jean Renoir

ジャン・ルノワール

Jean Renoir

 
1894-1979 (フランス)

Megaphonrbar


  ◆ 代表作

Les Bas-fonds Grand_Illusion
どん底
Les Bas-fonds
 
(1936年/フランス)
大いなる幻影
La Grande Illusion
(1937年/フランス)
La_bete_humaine
La Regle du jeu
獣人
La Bete Humaine
(1938年/フランス)
ゲームの規則
La Regle du Jeu
(1939年/フランス)
Le Fleuve French Cancan

Le Fleuve
(1951年/フランス・インド)
フレンチ・カンカン
French Cancan
(1954年/フランス)


    戦前のフランス映画黄金期の巨匠

 ・1894年、パリのモンマルトルにて、印象派の画家オーギュスト・ルノワールの次男として生まれた。

  ・第1次世界大戦中、騎兵隊、後に空軍に入隊したが、足を撃たれ、父親のもとで療養。1919年に父親が他界し、翌1920年、父親の絵のモデルをしていたカトリーヌ・エスラン(通称:デデ)と結婚した。
 
怪我の療養中に映画に興味を抱き、特にグリフィスチャップリンシュトロハイムなどに感銘を受けたという。また、カトリーヌが女優志望だったことも映画界入りの要因となった。
 (右の写真) 父親のオーギュストと
  * 兄のピエールは『天井桟敷の人々』等に出演した俳優
Pierre Jean

 ・自ら製作・脚本・共同監督を務めた『カトリーヌ』(1924年)で映画界入り。デデのデビュー作でもあり、自身も脇役で出演し、俳優としてもデビューした。後に、アベル・ガンス監督の大作『ナポレオン』(1927年)で、ナオポレンに扮したアルベール・デュードネが共同監督と主役を務めた。

Nana-Catherine_Hessling
 ・デデ主演の『水の娘』(1925年)、『女優ナナ』(1926年)、『マッチ売りの少女』(1928年)や、喜劇『のらくら兵』(1928年)等を監督したが、興行的に振るわず、資金繰りの為に父親の絵を売却した。デデとは1930年に離婚(正式な離婚成立は1943年)。トーキー2作目の『牝犬』(1931年)のヒロインに起用しなかったことが破局の原因の1つとされている。
 (左の写真)『女優ナナ』 デデことカトリーヌ・エスラン


Boudu_sauve_des_eaux
Toni
『素晴らしき放浪者』(1932年)
『ジャン・ルノワールのトニ』(1935年)
Les_bas-fonds-2
Partie_de_campagne
『どん底』(1936年)
ジャン・ギャバン(左)、ルイ・ジューベ

『ピクニック』(1936年)

 ・『大いなる幻影』(1937年)がベネチア国際映画祭の芸術映画賞を受賞。米アカデミー賞においても、外国語映画としては初めて作品賞にノミネートされた(当時は外国語映画賞という部門が無かった)
 『大いなる幻影』の成功によって、ルノワール監督は国際的な名声を確立した。
Grand_Illusion-2
Renoir and Gabin
『大いなる幻影』(1937年)
ジャン・ギャバン(左)、
ピエール・フレネー
ジャン・ギャバン(右)と
Les_Bas-fonds-2
Partie_de_campagne-2
『獣人』(1938年)
シモーヌ・シモン、ジャン・ギャバン

『ゲームの規則』(1939年)
ジャン・ルノワール(右)…出演もした


  ・1939年、ローマで『Tosca 』の撮影に入ったが、イタリアが第2次世界大戦に参戦したため途中で断念。同作は、『ゲームの規則』の共同脚本家でもあったカール・コッホが監督となり完成させた。

 ・1940年、アメリカへ逃避し、戦後も同国に留まった。ハリウッドで『スワンプ・ウォーター』(1941年)、『自由への闘い』(1943年)、『南部の人』(1945年)、『小間使いの日記』(1946年)、『浜辺の女』(1946年)を撮り、『南部の人』でアカデミー賞監督賞にノミネートされた。
Swamp_Water-2
Swamp Water
スワンプ・ウォーター』(1941年)
ダナ・アンドリュースアン・バクスター
『スワンプ・ウォーター』撮影時
ダナ・アンドリュース、アン・バクスターと
This_Land_Is_Mine Renoir_Laughton
『自由への闘い』(1943年)
チャールズ・ロートンモーリン・オハラ
『自由への闘い』撮影時
チャールズ・ロートン(右)と
The_Diary_of_a_Chambermaid The_Diary_of_a_Chambermaid-2
『小間使いの日記』(1946年)
バージェス・メレディス、ポーレット・ゴダート
『小間使いの日記』撮影時
ポーレット・ゴダードと

  ・1949年、インドへ行き、自身初のカラー作品『河』(1951年)を監督。ベネチア国際映画祭の国際賞を受賞。
Le_Fleuve-2
Le_Fleuve-3
『河』(1951年)
『河』撮影時

 ・イタリアで『黄金の馬車』(1953年)を監督。
Le_Carrosse_d'or-2
Le_Carrosse_d'or
『黄金の馬車』(1953年) アンナ・マニャーニ 『黄金の馬車』撮影時 アンナ・マニャーニと

 ・1954年、14年ぶりに帰国したフランスで、『フレンチ・カンカン』を監督。
French_Cancan-2
French_Cancan-3
『フレンチ・カンカン』(1954年)
ジャン・ギャバン、フランソワーズ・アルヌール

『フレンチ・カンカン』撮影時
ベッドの上はフランソワーズ・アルヌール


 ・1956年、フランス・イタリア合作の恋愛喜劇『恋多き女』を監督。
Elena_et_les_Hommes
Renoir Bergman
『恋多き女』(1956年)
メル・ファーラー、イングリッド・バーグマン

『恋多き女』撮影時
イングリッド・バーグマンと


 ・ジャン・ルイ・バロー主演のTV映画『コルドリエ博士の遺言』(1959年)、『草の上の昼食』(1959年)、最後の劇場用映画『捕えられた伍長』(1962年)を監督。TV映画『ジャン・ルノワールの小劇場』(1970年)が最後の作品となった。
 (右の写真)ルノワール監督を映画の師と仰ぎ、慕っていた
 フランソワ・トリュフォー(左)と
Truffaut Renoir

Ford Renoir   ・1974年、「ジャン・ルノワール自伝」を出版。

 ・1975年、アカデミー賞名誉賞を受賞。
 イングリッド・バーグマンがプレゼンターを務め、ルノワール監督の業績を称えた(本人は欠席)
 (左の写真)ジョン・フォード監督(左)と

  ・ジャック・ベッケル、ジャック・リヴェット、ルキノ・ヴィスコンティ、ロバート・アルドリッチといった名監督たちが、ルノワール監督の下で助監督をしていた。
  黒澤明監督が面会した際、先輩のルノワール監督があまりにも物腰が低い態度だったので恐縮してしまったそうです。

 ・1979年、ビバリーヒルズの自宅にて、85歳で他界。
 (右の写真)後ろの絵は、父親のオーギュストが描いた少年の頃のジャン
Jean_Renoir-2


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