20世紀・シネマ・パラダ イス

Megaphonebar
Abel Gance

アベル・ガ ンス

Abel Gance

1889-1981 (フランス)

Megaphonrbar


   代表作

J'accuse!-2 La Roue
戦争と平和
J'accuse
(1919年/フランス)
鉄路の白薔薇
La Roue
 (1923年/フランス)
Napoleon La_fin_du_monde
ナポレオン
Napoleon
(1927年/フランス)
世界の終り
La fin du monde
(1931年/フランス)


    「ヨーロッパのグリフィス」サイレント期のフランスの大家

 ・1889年、パリ生れ。14歳で学校を中退。事務員として働いていたが、演劇に 興味を抱き、19歳の時に役者として舞台に立った。その後、自ら脚本も書いた『Moliere(1909年)で映画に初出演した。

 ・友人と映画製作会社を設立し、『La digue(1911年)で監督デビュー。その後、フィルム・ダール社で監督として活躍したが、『チューブ博士の狂気』(1916年)では、特殊レンズで歪んだ映像を撮るなど、この時期から独創性を発揮した。
 (右の写真)『チューブ博士の狂気』
La_folie_du_docteur_Tube

J'accuse!  ・『戦争と平和』(1919年)。映画監督としての名声を確立した作品。第1次世界大戦中、健康上の理由から兵役を免除されたガンス監督が自ら脚本を執筆。パテ社から出資の約束を取り付けると、軍の映画班に入隊し、本当の戦場でも撮影した反戦映画の名作。
 (左の写真)『戦争と平和』
 原題は「私は糾弾する」。トルストイの「戦争と平和」とは無関係。

 ・1921年、『戦争と平和』のプロモーションのため渡米。「アメリカ映画の父」D・W・グリフィス監督とも面談した。
 ガンス監督は「ヨーロッパのグリフィス」とも称されていたが、2人のキャリアは確かに似ている。
 (右の写真)グリフィス監督(右)と
Gance and Griffith

La Roue-2  ・『鉄路の白薔薇』(1923年)で名声を不動のものとした。「黒の交響楽」、「白の交響楽」の2部から成る3時間を超える大作。“フラッシュ・バック"”の手法は、世界の映画監督たちに影響を及ぼした。
 サイレント期のフランス映画で芸術的にも最高峰と称されている。
 (左の写真)『鉄路の白薔薇』 セヴラン・マルス

 ・ライフワークの『ナポレオン』の製作に着手。母国の英雄ナポレオン皇帝の全生涯の映画化で、企画では全6部だったが、若きナポレオンを描いた第1部だけでもフィルムは12時間に及 んだ。
 カメラを馬の鞍や気球に取り付けるなど、様々な撮影テクニックを駆使した。
 (右の写真)撮影時の様子
Napoleon-5
Napoleon-2  ・1927年、パリのオペラ座で特別公開された。クライマックスでは、スクリーンが3つになり、3台のカメラで同時に撮影した1つの大きな映像が映し出されたり、中央と左右の映像が違うものであったり と、観客を驚かせた。しかし、興行的には失敗作に。アメリカでは80分にカットされ、日本では17.5ミリ版が公開されただけだった。その結果、第2部以降が製作される ことはなかった。
 (左の写真)『ナポレオン』

 ・自身初のトーキーで、自ら主役もこなしたSF映画『世界の終わり』 1931年) も興行的に失敗し、創作活動の自由が制限されてしまった。以後は、本人曰く、「生活のため 」に商業的な作品を撮り続け、最後の作品『Cyrano et d'Artagnan(1964年)まで息長く活動した。
 (右の写真)1953年のカンヌ映画祭
 オーソン・ウェルズ(右)と

Gance and Wells

Abel Gance-2  ・1981年1月、ガンス監督に朗報が届いた。イギリスの映画史家ケビン・ブラウンローが、20年近くもの歳月をかけて修復した『ナポレオン』に感銘を受けたフランシス・フォード・コッポラ監督が、配給権を買い取り、修復版を公開することになった。
 ニューヨークのラジオ・シティ・ミュージック・ホールにおいて、オーケストラの生演奏付きで最初の上映会が行われた。コッポラ監督の父親カーマイン・コッポラが作曲し、オーケ ストラの指揮を執った。
 (左の写真)アベル・ガンス監督

Napoleon-3 Napoleon-4

(上の写真)『ナポレオン』上映時の様子

 ・上映会は大成功。その事を国際電話で聞いたガンス監督は、「やっ と…」と呟いたという。 ガンス監督の脳裏には、大スクリーンに映し出されたアルベール・デュードネ扮するナポレオンの勇姿と、拍手喝采する大観衆の姿が浮かびあがっていたに違い ない。
 修復版『ナポレオン』は世界各国で上映され、ガンス監督の名声は再び轟いた。1982年、日本でもオーケストラの生演奏付きで公開。日本版は黒澤明監督が監修した。

 ・1981年11月、92歳で他界。

 ガンス監督自身は、「映画界のヴィクトル・ユーゴー」 と称されることを望んでいたという。フランスには、シネマトグラフを発明した「映画の父」リュミエール兄弟がいるが、ガンス監督は「フランス映画の長兄 だと言える。 
 * ヴィクトル・ユーゴー … 「レ・ミゼラブル」等で知られるロマン派の詩人・小説家
 

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