20世紀・シネマ・パラダイス
D・W・グリフィス
David Wark Griffith
1875-1948(アメリカ)
◆
代表作
國民の創生
The Birth of a Nation
(1915年/アメリカ)
イントレランス
Intolerance
(1916年/アメリカ)
散り行く花
Broken Blossoms
(1919年/アメリカ)
東への道
Way Down East
(1920年/アメリカ)
◆
「アメリカ映画の父」
・
1875年
、ケンタッキー州生まれ。映画監督となる前は舞台俳優をしており、演出家、劇作家を志していた。エジソン社に脚本を売り込みに行った際、『大列車強盗』
(1903年)
で有名なエドウィン・S・ポーター監督に誘われ、『鷹の巣から救われて』
(1908年)
に出演。映画界での初仕事となった。
・1908年、バイオグラフ社と契約。俳優、脚本家として活動し始め、『ドリーの冒険』
(1908年)
で監督デビュー。以後、1913年までに450本以上の短編映画を監督した。
後の大スター、
メアリー・ピックフォード
、
リリアン・ギッシュ
も、この時期のグリフィス監督作品で映画女優としての第1歩をスタートさせている。また、後々までグリフィス監督を支えたカメラマンのG・W・“ビリー”・ビッツァーと出会ったのもバイオグラフ社時代だった。
(右の写真)G・W・“ビリー”・ビッツァー(左)と
・自身初の長編
(61分)
『ベッスリアの女王』
(1913年)
をお蔵入りにさせられ、バイオグラフ社を退社。ニューヨークからハリウッドへ移った。
・私財を投じ、大作『國民の創生』
(1915年)
を監督。
40〜50分で長編とされていた当時において、165分という上映時間で、入場料も通常の8倍近くとしたにも関わらず、記録的な大ヒットとなった。 だが、KKKを英雄的に描くなど、人種差別な作品との批判も受けた。グリフィス監督の父親は南北戦争時に南軍の大佐として活躍した人物であり、子供の頃に受けた教育が影響していたとも言われている。
(左の写真)『國民の創生』(1915年)KKKによる黒人虐待シーン
・更なる超大作
『イントレランス』
(1916年)
を監督。『國民の創生』により、人種差別者と糾弾されたことへの返答として、また、イタリアの大作映画『カビリア』
(1914年)
に 対抗するものとして撮ったとされている。今でこそエポックメイキングな作品、映画史上不滅の名作との評価が確立されているが、公開当時は興行不振で、グリ フィス監督は多額の負債を抱えることとなった。バビロン宮殿のセットを解体する資金もなく、10年近くも放置されたままであったという。
『イントレランス』(1916年)
撮影時のグリフィス監督
・1919年、
チャールズ・チャップリン
、
ダグラス・フェアバンクス
、メアリー・ピックフォードと共同で、配給会社ユナイテッド・アーチスツ社を設立。
(右の写真)左から、フェアバンクス、ピックフォード、チャップリン、グリフィス
・ユナイテッド・アーチスツ社の第1号配給作品だったのが
『散り行く花』
(1919年)。
以後、『東への道』
(1920年)
、『嵐の孤児』
(1921年)
等を同社から配給した。『嵐の孤児』は、グリフィス監督作品の多くでヒロインを務めたギッシュ姉妹との最後の作品。多額の負債を抱えたグリフィス監督が、スターとなった姉妹に見合う報酬を支払えなくなったためと言われている。
『東への道』撮影時。グリフィス監督(左から2番目)
リチャード・バーセルメス、リリアン・ギッシュと
ドロシー・ギッシュ(左)、リリアン・ギッシュ(右)と
・一時期、パラマウント社と契約して、『曲馬団のサリー』
(1925年)
等を監督したが、ヒットを飛ばすことが出来ず、『苦闘』
(1931年)
を最後に引退。新作を撮る資金を確保出来ず、ユナイテッド・アーチスツ社の株も売却した果てでの引退だった。
・その後、
クラーク・ゲーブル
、
スペンサー・トレイシー
主演の『桑港 -
サンフランシスコ
』
(1936年)
の第2班監督を務めたが、名前はクレジットされなかった。
(右の写真)『桑港 - サンフランシスコ 』 撮影時
・1936年、アカデミー賞名誉賞を受賞。
この年のアカデミー賞は、賃金カットを巡って会社側と組合側の対立が激化し、授賞式の開催が危ぶまれていた。当時のアカデミー協会会長の
フランク・キャプラ
が、「アメリカ映画の父」として崇拝されていたグリフィスを招くことで、何とか授賞式開催に漕ぎ着けたと言われている。
(写真) 左から、フランク・キャプラ、グリフィス、
ジーン・ハーショルト
、ヘンリー・B・ウォルソール、
フランク・ロイド、
セシル・B・デミル
、
ドナルド・クリスプ
・
1948年
、
73歳
で他界。
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