20世紀・シネマ・パラダイス
セシル・B・デミル
Cecil B. DeMille
1881-1959(アメリカ)
◆
代表作
十誡
The Ten Commandments
(1923年/アメリカ)
平原児
The Plainsman
(1937年/アメリカ)
大平原
Union Pacific
(1939年/アメリカ)
サムソンとデリラ
Samson and Delilah
(1949年/アメリカ)
地上最大のショウ
The Greatest Show
on Earth
(1952年/アメリカ)
十戒
The Ten Commandments
(1956年/アメリカ)
◆
自らの「王国」を築き上げた大監督
サイレント期から豪華絢爛な娯楽大作、スペクタクル巨編を撮り続け、所属していたパラマウント社は「デミル王国」 とも呼ばれていた大監督。
・
1881年
、マサチューセッツ州生れ。1900年、アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツを卒業し、ブロードウェイで俳優、劇作家、舞台監督として活躍した。
・1913年、
ジェシー・L・ラスキー
、
サミュエル・ゴールドウィン
と「ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー」を設立。アメリカ初の長編映画『スコウ・マン』
(1914年)
を撮り、大ヒットさせた。スコウ・マンとは、先住民女性と結婚した白人男性の意。デミル監督のお気に入りの話で、1918年と1931年にもリメイク作を撮った。また、『チート』
(1915年)
を大ヒットさせ、主演の
早川雪洲
を大スターにしたのもデミル監督である。
『スコウ・マン』
(1914年)
『チート』
(1915年) 早川雪洲
・1916年、「ジェシー・L・〜」は合併により「フェーマス・プレーヤーズ・ラスキー・スタジオ」となった。デミル監督は上流階級を舞台にした豪華絢爛なメロドラマを数多く撮って成功。中でも、『夫を変へる勿れ』、『男性と女性』
(1919年)
、『何故妻を換へる?』
(1920年)
、『アナトール』
(1921年)
などに主演した
グロリア・スワンソン
とのコンビが有名。
『夫を変へる勿れ』 グロリア・スワンソン
グロリア・スワンソンと
・ デミル監督は、女優が身に着けるダイヤモンド等の宝石類は全て本物、コートも最高級のミンクを使用するなど、金に糸目をつけぬ演出をした。その結果、多く の女性客が映画館に足を運ぶこととなり、監督の狙いは見事的中。撮影現場は、本物の銃を持ったガードマンに警護されていたという。
(右の写真)現場では、乗馬用のズボン、ブーツ姿がトレード・マークだった。
・1920年代初頭、
ロスコー・アーバックル
事件など、有名スターのスキャンダラスな不祥事が続き、ハリウッドに自主規制が求められると、デミル監督はそれまでのメロドラマ路線から一転、旧約聖書を題材としたスペクタクル巨編『十誡』
(1923年)
や、イエス・キリストの生涯を描いた『キング・オブ・キングス』
(1927年)
等を撮り、大ヒットさせた。尚、「フェーマス・プレーヤーズ〜」は、1927年に「パラマウント」に社名変更した。
『十誡』(1923年)
『キング・オブ・キングス』(1927年)
・1927年、アカデミー協会(映画芸術科学アカデミー)の創設会員36名の1人として名を連ねた。
・1928年、MGM社に移り、自身初のトーキー作品『ダイナマイト』
(1929年)
等を撮ったがあまりヒットせず、1931年、自らの「王国」パラマウント社に復帰。『平原児』
(1937年)
以降の作品では製作も兼ねた。
『クレオパトラ』(1934年)
クローデット・コルベール
『クレオパトラ』撮影時
クローデット・コルベールと
『平原児』
(1937年)
ジーン・アーサー
、
ゲーリー・クーパー
『平原児』撮影時
ゲーリー・クーパー、ジーン・アーサーと
・西部開拓時代の鉄道敷設を巡る利権争いを描いた『大平原』
(1939年)
は、第1回カンヌ映画祭でグランプリとなったが、第2次世界大戦の影響で映画祭が中止に。2002年の映画祭で改めて第1回グランプリ作品として表彰された。
『大平原』(1939年)
ジョエル・マクリー
、
バーバラ・スタンウィック
『大平原』撮影時。左から、スタンウィック、
マクリー、デミル監督(ブーツの男)
初のカラー作品『北西騎馬警官隊』
(1940年)
マデリーン・キャロル
、ゲーリー・クーパー
『北西騎馬警官隊』
撮影時
マデリーン・キャロル、ゲーリー・クーパーと
・戦後の1作目『征服されざる人々』
(1947年)
は、その年最大のヒット作に。2作目『サムソンとデリラ』
(1949年)
は、パラマウント社史上最大のヒット作
(当時)
に。
『征服されざる人々』(1947年)
ゲーリー・クーパー 、
ポーレット・ゴダード
『征服されざる人々』撮影時
ボリス・カーロフ
、
ポーレット・ゴダード
と
『サムソンとデリラ』(1949年)
ヴィクター・マチュア
、
ヘディ・ラマー
『サムソンとデリラ』撮影時
ヴィクター・マチュア、ヘディ・ラマーと
・1950年、アカデミー賞名誉賞を受賞。
・政治的には保守の強硬派だった。
‟赤狩り”
に揺れた1950年の映画監督組合
(現在の全米監督協会)
の総会において、赤狩りに協力する動議を提案したが、
ジョン・フォード
監督をはじめとする反対派に一蹴され、組合の理事辞任へと追い込まれた事も。
(右の写真)
D.W.グリフィス
(右)と。1929年
・
『サンセット大通り』
1950年/(監督:
ビリー・ワイルダー
)
に本人役で出演。サイレント期に名コンビだったグロリア・スワンソンとの共演で、往年の映画ファンを喜ばせた。
(左の写真)『サンセット大通り』グロリア・スワンソンと
・1952年、ゴールデン・グローブ賞より、永年の功績を称えて特別表彰された。以後、同賞は「セシル・B・デミル賞」と命名され、映画界に貢献した人物に贈られている。
・戦後3作目、『地上最大のショウ』
(1952年)
は、インフレ調整後の興行成績では歴代57位
(2014年現在)
という大ヒット作に。
『地上最大のショウ』
ジェームズ・ステュアート
、
コーネル・ワイルド、
チャールトン・ヘストン
『地上最大のショウ』
撮影時のデミル監督(右)
・『地上最大のショウ』でアカデミー賞作品賞を受賞したが、本命
『真昼の決闘』
、対抗
『静かなる男』
という前評判を覆しての受賞で、マスコミには「受賞理由不明」と叩かれた。
当時、普及してきたTVに対抗するため、大金をかけたスペクタク ル作品である同作が受賞したとの見解が一般的。尚、この年の授賞式からTV中継がスタートしている。
(右の写真)右手にオスカー像、左手にアービング・G・タルバーグ賞の像
・自身の『十誡』
(1923年)
を撮り直した
『十戒』
(1956年)
は、インフレ調整後の興行成績では歴代6位
(2014年現在)
という記録的な大ヒットとなった。「大監督デミル健在なり」を示したが、撮影中、体調も万全でなく、自身最後の作品となることを予期していたとも言われている。同作が遺作となった。
『十戒』(1956年)
チャールトン・ヘストン、
ユル・ブリンナー
『十戒』撮影時
チャールトン・ヘストンと
・サイレント期から半世紀近くにも渡り、大衆が求めているものを察知し、大ヒット作を撮り続けたデミル監督。
チャップリン
や
キートン
は別として、自らの名前で観客を呼べた最初の映画監督であり、その観客動員力は同時代で比類なき稀代のヒット・メーカーだった。
(左の写真)『十戒』撮影時
・
1959年
、
77歳
で他界。
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