20世紀・シネマ・パラダイス
赤
狩り
時代のハリウッド (4)
‟赤狩り”への抵抗
ハリウッドの巨人セシル・B・デミルが巻き起こした映画監督組合の内紛
ブラック・リスト‟
Red Channels
”が出版
(1950年6月)
されるなど、‟赤狩り”の悲劇が拡大するなか、
保守派の重鎮
セシル・B・デミル
が起こした行動が大きな波紋を巻き起こした。
デミルはハリ ウッドの創生期からその中心にいた人物であり、当時の映画監督たちの中で、彼の地位は他の誰よりも高いものであった。
(右の写真)
セシル・B・デミル
1950年8月
。
映画監督組合
(現在の全米監督協会)
の理事だったデミルは、全組合員に
非共産主義者である旨の宣誓書の提出を課すことへの賛否を問う投票用紙を組合員
618
名に送付した。その結果は、賛成
547
名、反対
14
名、返答なし
57
名だった。
賛成が圧倒的多数なのには理由があった。投票用紙は付番されており、多くの人が保身のために賛成に投票したのだった。
<参考>
アメリカでは、
タフト・ハートリー法
(1947年制定)
により、労働組合の理事には非共産主義者である旨の宣誓書の提出が求められている。
1950年9月
。組合の理事会において、理事長の
ジョゼフ・L・マンキーウィッツ
が、この投票ついて異議を申し立てた。
マンキーウィッツはリベラル派として知られていた人物だが、投票が実施された8月は海外にいた。デミルはその時期を見計らっていたとも言われている。
(左の写真)ジョゼフ・L・マンキーウィッツ
‟赤狩り”の急先鋒デミルと
反対派のマンキーウィッツとの対立が表面化した。
デミルは、マンキーウィッツが「共産主義者のシンパ」であるとマスコミに喧伝させた。その上で、自分に同調する監督たちを集め、マンキーウィッツを解任する手立てを講じ始めた。
1950年10月
。 マンキーウィッツは、
『イヴの総て』
のプレミア興行でニューヨークにいる時に、自身のリコール投票用紙が配布されていることを知らされた。彼は全組合員の前で決着をつける覚悟を決めた。組 合の臨時総会を開催するには正組合員
25
名の請願が必要だったが、何とか確保した。
マンキーウィッツに同調した主なメンバー :
ウィリアム・ワイラー
、
ジョージ・スティーヴンス
、
ジョン・ヒューストン
、
ビリー・ワイルダー
、
エリア・カザン
、リチャード・ブルックス、
フリッツ・ラング
、
フレッド・ジンネマン
、
ルーベン・マムーリアン
、
ヴィンセント・ミネリ
、
ニコラス・レイ
、
ロバート・ワイズ
、ジョージ・シートン、マーク・ロブソン、
ジョセフ・ロージー、ウォルター・ライシュ。
1950年10月22日
。
ビバリーヒルズ・ホテルにおいて、300名を超える組合員が参加した臨時総会が開催された。
デミル派は、マンキーウィッツの解任と併せ、撮影中に‟
赤
”と思しき言動のあった人物については組合に報告すべし、との規則を設けることを提案した。
当時、デミルに対抗できるステータスを有していたのが、
ジョン・フォード
、
フランク・キャプラ
、ウィリアム・ワイラーの3人。第2次世界大戦中、多くの映画監督たちが戦時ドキュメンタリー映画の製作に携わったが、その中心的な役割を果たしたのがこの3人 -
ジョン・フォード(海軍)、ウィリアム・ワイラー(陸軍航空隊)、フランク・キャプラ(陸軍)
- である等、そのキャリアは顕著であり、他の監督たちからも尊敬されていた。
ウィリアム・ワイラーは、「憲法修正第一条委員会」を設立するなど、当初から
‟赤狩り”に反対していたが、如何せん、少数派であった。
ジョン・ヒューストンによれば、僅かな人数でデミル率いる多数派に盾突き、
‟赤狩り”への協力に反対を表明することは、
自分達のキャリアが危うくなることも覚悟の上であったという。
(左の写真) ウィリアム・ワイラー
フランク・キャプラは、アカデミー協会の会長
(1935〜1939年)
、映画監督組合の理事長
(1939〜1941年)
に選出されるなど、ハリウッドでも人望の厚かった人物だ。
当初はデミルを支持していたが、デミルの狙いが‟赤狩り”にあったのに対して、キャプラの願いは他の監督たちにもアメリカへの忠誠を示して欲しいという点にあった。キャプラがアメリカン・デモクラシーの 理想を信奉していたことは、その作品を観れば明らかだ。
(右の写真)フランク・キャプラ
デミルがマンキーウィッツの解任策を持ち出すに及んで、嫌気が差したキャプラはいち早く理事を辞任した。
夕方から始まった臨時総会は深夜にまで及んだ。映画監督組合にとって最も長い夜となったこの日、決着をつけたのがジョン・フォードだった。それまで自分の態度を表明しておらず、マンキーウィッツもフォードの様子を注視していたという。
フォードのこの日の発言は伝説となった。
(左の写真)ジョン・フォード
「
私の名はジョン・フォード。西部劇を撮っています。私はセシル・B・デミル氏以上に、アメリカの大衆が求めているものを知っている者はいないと思う。その点では敬意を払う。だがC・B、私はあなたが嫌いだ。あなたが支持するものも、今夜の振る舞いも大嫌いだ…
」。
フォードは理事全員の辞任を求め、皆に呼びかけた。「
もう家へ帰って寝ようじゃないか。明日も撮影がある
」。
フォードの発言後、会場は盛大な拍手に包まれ、デミルを含む理事全員が辞任することとなった。後日、マンキーウィッツが理事長に再選し、デミルの提案は見送られた。
ジョン・ヒューストンの言葉からも判る通り、当時のハリウッドは共和党を支持する保守派が多数派だったが、保守派の中にも、仕事仲間を売るような‟赤狩り”には反対だった人が多かった結果である。
第2次世界大戦前のドイツ映画界は数多くの名作を生み出し、ハリウッドに勝るとも劣らない栄 華を極めていたが、ヒトラー率いるナチスの台頭によって状況が一変した。ユダヤ系やファシズムを嫌悪する人々は国外へ逃避し、国内に留まってナチスのプロ パガンダ映画の製作に協力した人々は、戦後、映画界から追放され、ドイツ映画界は壊滅的な打撃を受けた。
映画監督組合の臨時総会においてデミル派が勝利していたら、その後のハリウッドの歴史は大きく変わっていたはずである。
映画監督組合は、エスカレートする一方の‟赤狩り”に抵抗を示した。
(右の写真)ウィリアム・ワイラー(左)、ジョン・フォード。(1972年)
第23回アカデミー賞で、
‟赤”
?
の俳優がオスカーを獲得
1951年3月21日、下院非米活動委員会が聴聞会を再開するなど、
‟赤狩り”の真っ只中の
1951年3月29日
に開催された第23回
(1950年度)
アカデミー賞は興味深い結果となった。
‟
赤
”とされた俳優が、
主演男優賞と主演女優賞に輝いた。
主演男優賞は、『シラノ・ド・ベルジュラック』のホセ・フェラー。‟
Red Channels
”に名前を挙げられていたが、共産主義者ではないと表明していた。
授賞式は電話の声だけの出演だったが、「
栄誉以上のものです…。
信頼と信認の投票
に感謝します…
」と語った。
(左の写真)『シラノ・ド・ベルジュラック』のホセ・フェラー
アカデミー会員によって、‟赤”ではないと信認されたホセ・フェラーは、『赤い風車』
(1952年)
でもオスカー候補になるなど順調にキャリアを積んでいった。ジョージ・クルーニー
(俳優)
の義理の叔父にあたる。
主演女優賞は、『ボーン・イエスタディ』のジュディ・ホリデイ。彼女も ‟
Red Channels
”に名前を挙げられていたが、前評判の高かった『イヴの総て』の
ベティ・デイビス
、『サンセット大通り』の
グロリア・スワンソン
に競り勝っての受賞だった。
(右の写真)『ボーン・イエスタディ』 のジュディ・ホリデイ
ジュディ・ホリデイは翌年、下院非米活動委員会と同様に共産主義者を告発していた上院国内治安小委員会に召喚された。そのためかどうか映画の出演は少ない。元々舞台出身で、ハリウッドよりもブロードウェイで活動した。
2人が素晴らしい演技をしたことは勿論だが、‟
Red Channels
”に載せられてしまった俳優への無言のエールとして投票した人、‟赤狩り”への抗議の念を込めて投票した人も少なからずいたと思われるが如何なものか?
‟赤狩り”を公然と批判することは困難だった当時、抵抗を示した映画人も多くいた。しかし、‟赤狩り”の猛威を止めることは出来ず、‟赤狩り”は映画界最大のスーパースターをも巻き込むこととなった…。
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