20世紀・シネマ・パラダイス
赤狩り時代のハリウッド (5)
チャップリンの追放
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1952年9月16日、新作『ライムライト』のプレミア興行のためロンドンへ向けニューヨークを出港したチャップリンは、船中でアメリカの司法長官からの再入国を許可しない旨の通知を受けた。 |
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ロンドン出身の喜劇役者チャップリンがアメリカで銀幕デビューしたのは1914年。ニッケルオデオン(5セント硬貨劇場)と呼ばれた小規模な映画館がまだ主流で、観客の大半が労働者階級だったが、翌1915年には、『國民の創生』(監督/D・W・グリフィス)が記録的な大ヒットとなるなど、映画は中産階級の人々をも魅了し始め、一大娯楽となっていく頃だった。また、映画産業の中心地がニューヨークからロスアンゼルスへと移りつつある頃、映画の都ハリウッドが形成される頃でもあった。 |
チャップリンは自ら脚本・演出もこなすようになり、傑作を発表し続けた。チャップリン扮する‟The Little Tramp = 小さな放浪者”は大衆のアイドルとなり、急成長を続ける映画産業の最大の牽引者となった。 (右の写真)1918年、ウォールストリートにて。
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1918年、チャップリンはハリウッドに自身の撮影所を設立。翌1919年、映画製作の自由を求めて、D・W・グリフィス監督、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードと共に配給会社ユナイテッド・アーチスツ社(UA社)を設立。この頃、映画は「第八芸術」とも呼ばれるようになっていた。
(左の写真)左から、メアリー・ピックフォード、D・W・グリフィス、チャップリン、ダグラス・フェアバンクス |
| 「第八芸術」…建築、彫刻、絵画、音楽、演劇、文芸、舞踏に次ぐ八番目の芸術(諸説あり)
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UA社での第1作目『巴里の女性』(1923年)は、芸術的に大変優れた作品と批評家から絶賛されたが、興行的には芳しくなく、ドタバタ喜劇に回帰した『黄金狂時代』(1925年)は大ヒット。チャップリンの映画を観に行く大衆は、やはり喜劇を求めていた。
『サーカス』(1928年)で第1回アカデミー賞の特別賞を受賞した際には、「僅かな人間が決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私が欲しいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を称賛してくれたら、それで十分だ」とのコメントを残している。 |
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大衆から愛され、支持されたチャップリンは、大衆の代弁者と見なされるようになった。その反面、一部の人々から白眼視されるようにもなった。 |
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『チャップリンの独裁者』(1940年)
チャップリンは平和主義、博愛主義を謳いあげた。しかし、‟坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”。チャップリンを白眼視する輩からは、容共的であると非難された。 |
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『殺人狂時代』(1947年)
戦争による大量殺人を批判したが、米ソ冷戦の真っ只中で公開されたこともあり、チャップリンを‟赤”だと糾弾する声が一気に高まった。 |
ちなみに、『チャップリンの独裁者』、『殺人狂時代』が日本で公開されたのは、GHQによる占領が終わってからである。 |
FBI(連邦捜査局)は、チャップリンを反体制的な人物として監視し始めた。
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『殺人狂時代』の原案者でもあるオーソン・ウェルズは、製作には一切口出しをしないとの条件で、名作『市民ケーン』(1941年)を撮った。弱冠25歳。チャップリンの銀幕デビュー時とほぼ同じ年齢である。しかし、映画のモデルであるウィリアム・ランドルフ・ハースト率いるメディアに攻撃され、その後もハリウッドでは異端視された。そして、チャップリンと同様‟Red Channels”に名前を挙げられた。
(右の写真)オーソン・ウェルズ(左)、チャップリン |
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ウェルズは欧州へ逃れたが、チャップリンは逃げも隠れもしなかった。チャップリンはアメリカの市民権を取得しておらず、その事を政府筋から問われた際に、「私は世界市民だ」 と応じたという。
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時代は異なるが、ジョン・レノンも大衆の側に立ち続けたアイドル、ヒーローだった。
チャップリンが、公権力を恐れず、自分の信念に基づいて映画を撮ったのと同じように、ジョン・レノンも平和主義、友愛の理念に基づいて行動し、楽曲を作った。
ベトナム戦争に反対して大英帝国勲章を返上し、小野洋子と一緒に「ベッド・イン」のパフォーマンスを行ったりした。
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「平和を我等に」(1969年)、「労働者階級の英雄」(1970年)、「パワー・トゥ・ザ・ピープル」(1971年)…、代表曲の「イマジン」(1971年)。「イマジン」の世界観とチャップリンの発言「私は世界市民だ」には相通ずるものがある。
映画界も音楽界もあまたの英雄を輩出してきたが、「ワーキング・クラス・ヒーロー(労働者階級の英雄)」としては、チャップリンとジョン・レノンは傑出している。
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ジョン・レノンもチャップリンと同様、FBI(連邦捜査局)に監視されていた。 |
‟Red Channels”にも載り、チャップリンが‟赤狩り”の標的にされていることは、誰の目にも明らかな状況であった。 |
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チャップリンはハリウッドで孤高の人だったのか?
後年、「ハリウッドの俳優仲間で親友と呼べるのは、フェアバンクスだけであった」と述懐しているが、ダグラス・フェアバンクスは1939年に亡くなっていた。
(左の写真)フェアバンクス(左)とチャップリン
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メアリー・ピックフォードは、チャップリンを「頑固で、我儘で、愛らしい問題児」と評している。
チャップリンの頑固さは、撮影時の完璧主義者ぶりを示すエピソードやサイレントに拘り続けたことからも十分にうかがえる。たとえ親友のフェアバンクスから忠告されたとしても、チャップリンは自分の信念を曲げなかったのではないだろうか。
(右の写真)左から、チャップリン、ピックフォード、フェアバンクス |
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チャップリンは下院非米活動委員会からの度重なる召喚命令に従わず、遂にアメリカから追放された。
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2012年2月、イギリス国立公文書館が当時の機密文書を公表した。
FBI(米連邦捜査局)からの要請でチャップリンを調査したMI5(英秘密情報部)が、「チャップリンが共産主義の支持者と言える証拠はなく、危険人物ではない」との見解をまとめていたという。
チャップリンは‟赤”ではなかったこと、公権力にも屈しず、‟赤狩り”に反対する信念を貫き通した偉大さを再認識することが出来た。 |
東西冷戦を背景に、反共産主義を掲げた一部の偏狭な人々が愛国者ともてはやされて政治的主導権を握ったために始まった‟赤狩り”は、ハリウッド最大のスーパースター、チャップリンをも巻き込み、その悲劇のクライマックスを迎えた。
しかし、エスカレートし過ぎた‟赤狩り”は世間からも批判されるようになり、1954年12月2日、‟赤狩り”を推進した中心人物ジョセフ・マッカーシー上院議員に対する譴責決議が採択され、‟赤狩り”は終焉を迎えた。 |
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