20世紀・シネマ・パラダイス

Scandalbar

狩り時代のハリウッド (6)

エリア・カザンの栄光と影

Scandalbar



犠牲者たちの名誉回復

 1954年12月、マッカーシー上院議員の失脚により、‟赤狩り”は終焉を迎えた。しかし、‟ハリウッド・テン”(転向したエドワード・ドミトリクを除く)をはじめ、多くの犠牲者たちが檜舞台から追放されたままの状況がその後も長く続いた。

 1960年、‟ハリウッド・テン”の1人ダルトン・トランボが『スパルタカス』で檜舞台に復帰したが、レスター・コールは『野生のエルザ』(1966年)の脚本を偽名で執筆していた。

 ‟ハリウッド・テン”追放の声明を出したアメリカ映画協会(MPAA)は、追放の解除あるいは追放者たちの名誉回復といった類の声明を一切出していない。メジャーでの仕事に復帰すれば、それを容認するといったスタンスだった。

 ハリウッドにおいて、‟赤狩りの時代”に終止符が打たれたのは、チャップリンにアカデミー賞名誉賞が贈呈された時(1972年4月)であったと言えるかもしれない。

 チャップリンへの名誉賞贈呈は、アメリカからの謝罪と和解の申し入れでもあったと言われている。
 淀川長治さんは、チャップリンは怒って断るのではないか と思ったという。確かに、もう少し早い時期であったなら、チャップリンは辞退していたかもしれない。
 追放されてから約20年という年月、当時82歳という 年齢が、チャップリンをして再びアメリカの地へ赴かせたのかもしれない。
Chaplin-5

 その後、ダルトン・トランボに『黒い牡牛』(1956年)でのオスカー像が改めて贈呈(1975年)されたり、全米脚本家協会が中心となって、偽名や友人名義で発表されていた作品が訂正されるようにもなった。



波紋を呼んだエリア・カザンへのアカデミー賞名誉賞の贈呈

 エリア・カザンは舞台俳優としてデビューし、その後、演出を手掛けるようになったが、キャリアのスタート時に所属していたのが劇団「グループ・シアター」 。著名な演技指導者リー・ストラスバーグ等が設立した劇団である。

Elia_Kazan
 「グループ・シアター」には共産主義に傾倒した演劇人が多く、‟赤狩り”のブラック・リストに載せられた劇作家のクリフォード・オデッツ、アーウィン・ショー、俳優のジョン・ガーフィールドリー・J・ コッブ、ハワード・ダ・シルバ、フランシス・ファーマーなども所属していた。そして、エリア・カザンもこの劇団員だった一時期、共産党に入党していた。
 (左の写真)エリア・カザン

 エリア・カザン監督のアカデミー賞受賞作『紳士協定』(1947年)には、‟赤狩り”に巻き込まれた俳優が何人も出演していた。
  主人公の母親役のアン・リヴィア、親友役のジョン・ガーフィールド、物理学の博士役のサム・ジャッフェがブラック・リストに載せられた。
 また、編集長役の アルバート・デッカーは公然と‟赤狩り”を批判し、秘書役のジューン・ハボックは、「憲法修正第一条委員会」のメンバーとしてワシントンD.C.に乗り込 んでいる。
 (右の写真)『紳士協定』ジョン・ガーフィールドとアン・リヴィア
Gentleman's_Agreement_1947

 ところで、『紳士協定』はユダヤ人差別を糾弾した作品だが、‟ハリウッド・テン”のうち、ハーバート・ビーバーマン、アルバート・マルツ、レスター・コール、ジョン・ハワード・ローソン、アルヴァ・ベッシー、サミュエル・オーニッツの6名がユダヤ人だった。そして、6名とも檜舞台に復帰することがなかったのは単なる偶然か?

bar


 映画監督組合において、‟赤狩り”の賛成派と反対派とが対立した際、カザンは反対派に名を連ねていた。
 1950年10月22日、両派の決着をつける臨時総会が開催されたが、カザンは反対派のリーダー、ジョセフ・L・マンキーウィッツに総会には出席しない旨を告げていた。い ずれは下院非米活動委員会に召喚されることを予期していたからであり、自分の存在が反対派にとって不利になると察していたからである。

 1952年1月14日、下院非米活動委員会の聴聞会に召喚されたカザンは共産主義者8名の名前を証言し、‟追放”から免れた。自ら求めて証言した訳ではないが、「裏切者」、「密告者」との汚名を着せられることとなった。

 1999年。エリア・カザンにアカデミー賞名誉賞が贈呈された。カザンの業績からすれば遅すぎる受賞だったが、やはり‟赤狩り”時代の証言がネックとなっていたようである。
 抗議の矛先はカザンだけでなくアカデミー協会にも向けられた。
 (右の写真)プレゼンターのマーティン・スコセッシ(左)とエリア・カザン
Elia_Kazan_1999
 御年89歳のカザン。最後の晴れの舞台で、その輝かしい業績よりも ‟赤狩り”時代の行為の方により多くのスポットが当てられてしまったのは、カザンにとってもアカデミー協会にとっても想定外ではなかったか? これも‟赤狩り”の悲劇だった。

< 前ページ >

HOME