20世紀・シネマ・パラダ
イス
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十二人の怒れる男
12 Angry Men
監督:シドニー・ルメット
(1957年/アメリカ)
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◆ 有罪か無
罪か?息詰まるディスカッション
ニューヨークの法廷で殺人事件の審理が終わった。被告は18歳の少年で、父親を殺した犯人
か否かが審理された。有罪ならば被告の少年は電気椅子送りとなる…。12人の陪審員たちが評決を下すため陪審員室に移動した。 |
陪審員たちは赤の他人であり、慣例に従って番号順に席に着き、挙
手による評決が行われた。
結果は有罪が11人で無罪が1人だった。唯1人無罪とした陪審員8番は、スラム街に生まれ育った
被告に同情し、せめて1時間は話し合うべきだと主張した。評決は全員一致が原則である。11人が8番を説得することとなった。 |
有罪支持の陪審員たちは、検察側の2人の証人の証言を引き合いに
説得したが、8番は譲らな
い。「弁護士が無能だったようだ…。証人も人間なので間違える可能性はある…」。 |
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凶器の飛び出しナイフが焦点となった。事件当日、被告が古物商で
購入したことが確認されているが、被告はその後に紛失したと主張している。検察によれ
ば、このナイフは珍品であり、重要な証拠だという。 |
8番が同じナイフをポケットから取り出した。前日、スラム街の質屋で購入したという(審理は6日間行われていた)。有罪支持の陪審員たちが動揺した。8番は、自分を除く11人で無記名投票することを
提案した。全員が有罪ならば自分も従うという…。 |
8番を除く11人で無記名投票を行った結果、無罪が1人いた。(有罪10-無罪2)
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5番が無罪に投票したと思い込んだ3番が5番に噛みついたが、無罪
に投じたのは年配者の9番だった。9番がその理由を説明すると5番も無罪支持に転じた。(有
罪9-無罪3)
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11番が疑問を呈した。「少年が犯人ならば、なせ現場に戻ったのか?」。
議論が白熱し、再び挙手による評決が行われ、11番も無罪に転じた。(有罪8-無罪4)
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事件のあったアパートの階下の部屋に住む老人の証言が焦点となった。「殺してやる」
との少年の声と人が倒れる音を聞き、階段を走り去る少年を目撃したとの証言だ。8番は証言の信憑性が低いことを論証した。
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有罪を強弁している3番が怒りを
露わにし、8番と激しい口論となった。2番、6番も無罪支持に転じ、ついに6対6となった。(有罪6-無罪6)
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被告のアリバイが焦点となった。犯行時間、少年は映画を観ていたというが、逮捕時に映画の
題名を覚えていなかっ
たことが問題視されていた。8番は、記憶が無かった事が決して不自然ではないと論じた。
2番がナイフの刺された向きに疑問を呈し、3番が実演して見せた。
しかし、5番が飛び出しナイフ
の通常の使い方ではないと意見した。
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7番、12番、1番が無罪に転じ、無罪支持が9人となった。(有罪3-無罪9)。有罪支持の10番が自説を述べ
始めたが、スラム街の住民への偏見に満ちた発言を繰り返し、横柄な態度をとり続けていた彼の言葉には、誰1人として耳を傾けなかった。
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4番は、もう1人の証人の証言が有罪支持の根拠だと主張した。すなわち、高架鉄道を挟んで
正面の
建物に住んでいる女性が、通過する電車越しに犯行現場を目撃したとの証言である。12番が再び有罪支持に転じた。(有罪4-無罪8)。
議論は煮詰まり、皆疲労の色が隠せない。
4
番が眼鏡を外して目頭を押さえる仕草をした。それを見ていた9番がある事を思い出した…。
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『十二人の怒れる男』 予告編
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◆ 主な出演者など
陪審員1番
マーティン・バルサム
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陪審員2番
ジョン・フィードラー
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陪審員3番
リー・J・コッブ
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陪審員4番
E・G・マーシャル
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陪審員5番
ジャック・クラグマン
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陪審員6番
エドワード・ビンズ
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陪審員7番
ジャック・ウォーデン
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陪審員8番
ヘンリー・フォンダ
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陪審員9番
ジョセフ・スィーニー
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陪審員10番
エド・ベグリー
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陪審員11番
ジョージ・ヴォスコヴェック
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陪審員12番
ロバート・ウェッバー
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・TVドラマの脚本家だったレジナルド・ローズが、実際に殺人事件の陪審員となり、全員一
致の評決を得るまでに8時間もかかったという経験をもとに執筆したオリジナル・ストーリー。 |
・1954年に放映されたTVドラマ「十二人の怒れる男」(60分)
は大きな反響を呼び、レジナルド・ローズ、演出のフランクリン・J・シャフナー、陪審員8番を演じたロバート・カミングスがエミー賞を受賞した。他
の出演者は、フランチョット・トーン(3番)、エドワード・アーノルド(10番)
等。9番と11番は映画版と同じ俳優が演じていた。
(右の写真)TV番「十二人の怒れる男」撮影時
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* 少
し古い文献では、TVドラマもシドニー・ルメットが演出したと記述されているが、これは誤り。
* ロバート・カミングス … アルフレッド・ヒッチコック監督の『逃走迷路』(1942年)、『ダイヤルMを廻
せ!』(1954年)等に出演。
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・映画版の主役を打診されたヘン
リー・
フォンダはTV版に感銘を受け、レジナルド・ローズとの共同製作者にもなった。しかし、資金繰りで神経を使うことに懲りて最初で最後の製作業と
なった。フォンダはUA社のプロモーションや興行方法にも不満だったらしいが、作品の出来には満足しており、自身の出演作の中では、『怒りの葡萄』(1940年)、
『牛泥棒』(1943年)と本作がお気に入りとだったという。(左の写
真)ヘンリー・フォンダ
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・
監督には、TVドラマの演出家でスケジュールや予算を守ると評判だったシドニー・ルメットが
抜擢され、劇場用映画の監督としてデビューを果たした。ルメット監督は俳優たちに2週間のリ
ハーサルを積ませてから撮影を開始し、20日とかからずに撮り終えた。製作費も予算内の35万ドルに抑え、評判に違わぬ手腕を発揮してヘンリー・フォンダ
を満足させ
た。
(右の写真)左から、ヘンリー・フォンダ、シドニー・ルメット監督、リー・J・コッブ
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・本作は、非ハリウッドの所謂ニューヨーク派の台頭を印象づける作品ともなった。ニュー
ヨー
ク派は低予算で硬派の作品を撮る傾向が強い。同じ年にハリウッドを代表する名監督ビリー・ワイ
ルダーが、やはり法廷ものの『情婦』(ちなみに製作費は300万ドル)をエンターテインメント色豊かな、如何にも
ハリウッド的な作品に仕上げている。本作と見比べて、その作風の違いを味わうのも一興かも。
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・ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。アカデミー賞では、作品賞、監督賞、脚色賞の3部門
でノミネートされたが受賞は逃した。
・AFI(アメリカ映画協会)が2008年に選定したジャンル別ベスト10の 「法廷ドラマ」で第2位に。 |
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ピックアップ … リー・J・コッブ
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Lee J. Cobb
1911〜1976(アメリカ)
・1911年、ニューヨーク生れ。ニューヨーク大学卒業後、1934年に銀幕デビュー。翌1935年、共産主義に傾倒した演劇人が多く所属していた劇団
「グループ・シアター」に加入。同劇団の作家クリフォード・オデッツ原作の『ゴールデン・ボーイ』(舞台:1937年、
映画:1939年)、エリア・カザン監督の映画『影なき殺人』(1947
年)、舞台「セールスマンの死」(1949年)等に出演。 |
・‟赤狩り”時代の1951
年、俳優のラリー・パークスがリー・J・コッブも共産主義者だと証言。ハリウッドからの追放を免れるため、コッブも共産主義者の名前を証言(1953年)せざるを得ない状況に追い込まれた。
・『波止場』(1954年/監督:
エリア・カザン)と『カラマゾフの兄弟』(1958年/監督:リチャード・ブルックス)で
2度、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされる等、アクの強い名優として活躍。
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『波止場』(1954年)
マーロン・ブランド(右)と
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『十二人の怒れる男』
(1957年)
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・『西部の人』(1958年/監督:アンソニー・マ
ン)、『西部開拓史』(1962
年)、『L・B・ジョーンズの解放』(1970年/監督:ウィリアム・ワイラー)、
『エクソシスト』(1973年/監督:ウィリアム・フリードキン)等に出演。
(右の写真)『カラマゾフの兄弟』 マリア・シェルと
・1976年、64歳で他界。
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