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狩り時代のハリウッド (1)

下院非米活動委員会 (HUAC) の聴聞会 

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 冷戦の時代、西側諸国では共産主義者を公職等から追放する‟赤狩り”が猛威を振るった。アメリカでは政府や軍の関係者だけでなく、ハリウッドの映画人にも追及の手が伸び、多くの人々が檜舞台から追放された。
 
政府は映画の影響力を認め、戦前・戦中には数多くの戦意高揚プロパガンダ映画が製作され、大きな成果をもたらしたが、共産主義のプロパガンダ映画と疑われる作品も製作されていた。
 反共政策を推進する政治家たちは、世間の注目を集め、
反共産主義の気運を高めるため、ハリウッドの著名人たちを巻き込んだのだった。
 * 共産主義のプロパガンダ映画と疑われた代表的な作品
Mission_to_Moscow
The_North_Star
Song_of_Russia
Mission to Moscow 』(1943年)
ウォルター・ヒューストン (左)
The North Star (1943年)
アン・バクスターとフォーリー・グレンジャー
Song of Russia 』 (1944年)
ロバート・テイラーとスーザン・ピーターズ

 ◆ 下院非米活動委員会 (HUAC) とアメリカの理想を守るための映画同盟 (MPA)
 ハリウッドにおける ‟赤狩り” で大きな役割を果たしたのが、下院非米活動委員会 (HUAC) とアメリカの理想を守るための映画同盟 (MPA) である。
 下院非米活動委員会 (HUAC)
  1938年に発足し、ファシストや共産主義者を告発した。後に第37代大統領となった共和党 のリチャード・ニクソンは、当委員会のメンバーとして功成り名を遂げている。
  (右の写真) 1947年から委員長を務めた共和党のパーネル・トーマス
Parnell_Thomas
 アメリカの理想を守るための映画同盟 (MPA)
  戦時中の1944年、ファシストや共産主義者から映画界を防衛するという目的で、ハリウッ
 ドの保守派の人々に
より設立された。“赤狩り”において、下院非米活動委員会に協力した。
  
(右の写真) MPA初代代表のサム・ウッド
Sam_Wood
   (主な設立メンバー) セシル・B・デミルレオ・マッケリークラレンス・ブラウンヴィクター・フレミングキング・ヴィダー
       ウォルト・ディズニー、 クラーク・ゲーブルゲーリー・クーパージョン・ウェインロバート・テイラーウォルター・ブレナン
    アドルフ・マンジュー、ロナルド・レーガン、アイリーン・ダンジンジャー・ロジャースバーバラ・スタンウィック
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 1946年7月ハリウッド・リポーター」 誌のブラック・リスト報道
 
業界誌 「ハリウッド・リポーター 」 が、11名の脚本家を共産主義者であると報道。8月と9月にも ‟赤” とされる業界人の名前を報道し、同誌の創刊者ウィリアム・ウィルカーソンの通称にちなんで、「ビリーのブラック・リスト 」 と呼ばれた。ハリウッドで ‟赤狩り” が始まるきっかけの1つになったとされている。
  * 最初に名前を挙げられた11名中4名が 「ハリウッド・テン(後述) となった。

 1947年5月8日、9日政府とハリウッドの‟赤狩り”会談
 ビルトモア・ホテル (カリフォルニア州) において、政府と業界の非公開の会談が開催された。
 政府側は下院非米活動委員会の委員長パーネル・トーマス他2名。ハリウッド側はサム・ウッドロナルド・レーガン、ジャック・L・ワーナー、ロバート・テイラー、アドルフ・マンジューなど保守派の人物が参加した。
 ‟赤狩り” の聴聞会に向けての会談であり、召喚する共産主義者が洗い出された。
  (右の写真) 当時の映画俳優組合代表ロナルド・レーガン (第40代大統領/共和党)
Ronald_Reagan

 1947年5月19日。キャサリン・ヘップバーンの反下院非米活動委員会の演説
Katharine_Hepburn  ギルモア・スタジアム (カリフォルニア州) で開催された進歩党の大統領候補者ヘンリー・ウォレスの集会にゲストとして登場したキャサリン・ヘップバーンが、下院非米活動委員会による思想・言論の自由への弾圧を批判する演説を行った。
 「自由を奪おうとするいかなる攻撃にも抵抗します。既に手にしている自由を守るためだけの闘いではありません。更に意義のある、更に価値のある自由を手に入れるために闘うのです…」。 (左の写真) キャサリン・ヘップバーン
 そして、この演説の原稿を書いたのは、後に ‟赤” として追放される脚本家ダルトン・トランボであった。
 
 1947年9月。下院非米活動委員会の聴聞会への召喚と憲法修正第一条委員会の設立
 
43名の映画人に下院非米活動委員会から聴聞会への召喚状が届いたのを受け、これに抗議するウィリアム・ワイラージョン・ヒューストン、フィリップ・ダンの3名が 「憲法修正第一条委員会」 を設立。リベラル派の映画人が名を連ねた。 * 合衆国憲法修正第一条 … 信教、言論等の自由を保障している。
Philip_Dunne  (主な設立メンバー) ハンフリー・ボガートローレン・バコールベティ・デイビスメルヴィン・ダグラス
 ヘンリー・フォンダジョン・ガーフィールドジュディ・ガーランド、キャサリン・ヘップバーン、ジーン・ケリー
 バート・ランカスターグルーチョ・マルクスエドワード・G・ロビンソンフランク・シナトラビリー・ワイルダー
 (左の写真) フィリップ・ダン (脚本家・監督) … 『わが谷は緑なりき』 (1941年)、『愛欲の十字路』 (1951年)
 でアカデミー賞脚色賞にノミネート。
後に監督となり、『秘めたる情事』 (1958年/主演:ゲーリー・クーパー)、
 『嵐の季節』 (1961年/主演:エルヴィス・プレスリー) 等を撮った。

 1947年10月20日〜30日。下院非米活動委員会の聴聞会
 
ワシントンD.C.において、下院非米活動委員会の聴聞会が開催された。ハリウッドの映画産業界における共産主義の浸透度を調査するという名目であった。
 共産主義者とされる19名 (「非友好的証人」 と呼ばれた) の他、反共産主義の24名 (「友好的証人」 と呼ばれた)
証人として召喚された。アンチ派の証人の多くは 「アメリカの理想を守るための映画同盟」 のメンバーであり、知名度の高い大物たちであった。
   *
ジャック・L・ワーナー、ルイス・B・メイヤー、ウォルト・ディズニー、サム・ウッド、ゲーリー・クーパー、ロバート・テイラー、
      アドルフ・マンジュー、ロナルド・レーガン、アイン・ランド (作家) など
 
聴聞会は 「友好的証人」 たちへの質疑応答から始まり、その模様はニュース映画として全米で配信された。

 アニメーターたちにストライキを起こされた苦い経験があるウォルト・ディズニーは、ストの首謀者たちの名前などを証言。
 名前を挙げられたアニメーターのウィリアム・ポメランス、デヴィッド・ヒルバーマンなどは、後にブラック・リストに載った。
  (右の写真) ウォルト・ディズニー
Walt_Disney_HUAC
Robert_Taylor-2
 ロバート・テイラーも、俳優のハワード・ダ・シルバ、カレン・モリーなど、共産主義者の名前を証言。
 この時の証言が原因で、1989年、MGM社のロバート・テイラー・ビルが、ジョージ・キューカー・ビルに改称された。
  (左の写真) ロバート・テイラー
 アドルフ・マンジューは、「共産主義者が魔女ならば、私は魔女狩りのハンターだ…」 と宣言。
 セシル・B・デミル、
ジョン・ウェイン (49年3月〜53年6月までMPAの代表を務めた)、ロナルド・レーガンなどと共に、‟赤狩り”の急先鋒であったとされる人物。
  (右の写真) アドルフ・マンジュー
Adolphe_Menjou
Gary_Cooper_HUAC  ゲーリー・クーパーは、「共産主義については、人から聞いたことぐらいしか知らないが、好きではない …」 と証言。
 反共産主義のPR
に一役買わされたといった感じであった。
 証言したことを後悔し、‟赤狩り”の被害者を庇護することもあった。
  (左の写真) ゲーリー・クーパー

 憲法修正第一条委員会による抗議活動
 「非友好的証人」 たちが証言する10月27日。ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール夫妻など 「憲法修正第一条委員会」 のメンバー約20名が、抗議活動の一環として聴聞会に乗り込んだ。
 (右の写真) ワシントンD.C.で行進する
「憲法修正第一条委員会」 のメンバー。
  先頭はハンフリー・ボガートとローレン・バコール
Bogart_1947
 しかし、「憲法修正第一条委員会」 の抗議活動は尻すぼみに終わった。メンバーの1人、スターリング・ヘイドンが共産党員であったことが判明するなどして、他のメンバーにも疑惑の目が向けられた。当時、‟赤” と見なされることは致命的であった。
Humphrey_Bogart  キャリアの危機を迎えたハンフリー・ボガートは、業界誌 「フォトプレイ 」  (1948年3月号) に、「私は共産党員ではない 」 との声明を出した。
 後年、「共産党員にだまされた 」 との発言をしたメンバーもいたようだ。
  
(左の写真)  左から、ダニー・ケイ、ジューン・ハボック、ハンフリー・ボガート、
   ローレン・バコール

 「非友好的証人」 たちの対応
 
19名の 「非友好的証人」 の内、証言を求められたのは11名。その中で質疑応答に臨んだのは、ドイツ人の劇作家ベルトルト・ブレヒトだけであった。
 何度か映画化もされた戯曲 「三文オペラ」 を執筆するなど活躍していたが、ユダヤ系であったため、アメリカへ逃れて来たブレヒトは、映画の仕事は 『死刑執行人もまた死す』 (1943年/監督:フリッツ・ラング の脚本に携わっただけである。
Bertolt_Brecht  ドイツで共産党員であったか問われ、否定した。また、協業した作曲家のハンス・アイスラーとの関係なども問われた。
 活動を制約されることを恐れたブレヒトは、翌日、国外へ逃れた。共産主義者であったことは確かなようで、最終的には東ドイツで活動した。
   (左の写真) ベルトルト・ブレヒト
 * ハンス・アイスラー (ドイツ人の作曲家) … ベルトルト・ブレヒトと同じくドイツからアメリカへ逃れ、『死刑執行人もまた死す』、『孤独な心』
 でアカデミー賞にノミネート。チャップリンの音楽顧問も務めたが、ブラック・リストに載り、国外追放となった。

 
ブレヒト以外の10名の 「非友好的証人」 は、憲法修正第一条を盾に証言を拒否し、議会侮辱罪として告訴された。
 告訴された10名は、裁判では勝てると見込んでいたようだが…。

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