20世紀・シネマ・パラダ イス
ジン ジャー・ロジャース
Ginger Rogers
1911-1995 (アメリカ)
◆
代表作
トップ・ハット
Top Hat
(1935年/アメリカ)
有頂天時代
Swing Time
(1936年/アメリカ)
恋愛手帖
Kitty Foyle
(1940年/アメリカ)
ブロードウェイの バークレー夫妻
The Barkleys of Broadway
(1949年/アメリカ)
◆
フレッド・アステアとのダンシング・コンビで 一世を風靡
・
1911年
、ミズーリ州生れ。生後間もなく両親が離婚し、母親と母方の祖 父母に育てられた。
14歳の時にチャールストン・ダンスのコンテストで優勝したことがきっかけでショー・ビジネスの世界に入り、演劇評論家だった母親と一緒に全米各 地のボードビルを巡演した。
・1929年、17歳の時にダンサーのジャック・ペッパーと結婚し、「ジンジャーとペッパー(生姜と胡椒)」 として舞台で共演もしたが、数ヶ月で別れた
(離婚が成立したのは1931年)
。
・1929年、ニューヨーク滞在中に3本の短編映画に出演。同年12月25日(クリスマス)に、舞台「
Top Speed
」 でブロードウェイ・デビュー。パラマウント社と契約し、
クローデット・コルベール
主 演の『恋愛四重奏』
(1930年)
で長編映画デビューも果たした。
昼は映画の撮影、夜は 舞台に出演という生活をしていたが、ブロードウェイでの2作目「
Girl Crazy
」 の公演が終了した1931年にハリウッドへ移った。
・ハリウッドではなかなか芽が出なかったが、ワーナー・ブラザーズ社の大ヒットミュージ カル『四十二番街』
(1933年)
に出演し、注目を集めた。
(右の写真)『四十二番街』
ウナ・マーケル(左)、ルビー・キーラー(中央)と
・RKO社で、ドロレス・デル・リオ主演の『空中レビュー時代 』
(1933年)
に出演。
準主役の彼女と
フレッド・アステア
のダンスが大評判となり、RKO社と専属契 約。彼女とアステアが主演の『コンチネンタル』
(1934年)
が製作されて大ヒット。2人の人気を決定的なものとした。
(左の写真) 『空中レビュー時代 』 フレッド・アステアと
・アステア& ロジャースは、ハリウッド史上最高のダンシング・コンビと謳われ、一世を風靡した。
『ロバータ』、『トップ・ハット』
(1935年)
、『艦隊を追って』、『有頂天時代』
(1936年)
が立て続けに大ヒット。
ドル箱 (マネー・メイキング)スター・ベスト10にも「アステア&ロジャース」のコンビとして、1935年(第4位)、1936年(第3位)、1937年(第7位)と、3年連続でランクインした。
『トップ・ハット』
『艦隊を追って』
『有頂天時代』
・ハリウッドで一時代を築いたアステア&ロジャースだったが、マンネリ化は避けられず、コンビ7作目『踊らん哉』
(1937年)
の興行 成績が落ち込み、『気儘時代』
(1938年)
、『カッスル夫妻』
(1939年)
も興行不振で、コンビは解消した。
(右の写真)『踊らん哉』 フレッド・アステアと
・私生活では、『恋に賭けるな』
(1933年)
で 共演した
リュー・エアーズ
と1934年に再婚 したが、1941年に離婚。その後3度、生涯で計5度の結婚・離婚をした。
(左の写真) リュー・エアーズとの結婚式時
・アステアとのコンビ時代から、『ステージ・ドア』
(1937年)
、『モーガン先生のロマンス』
(1938年)
といった非ミュージカル作品にも出演していた。彼女が演技派女優への転身を望んでいたことも、アステアとのコンビ解消の一因だったと言われて いる。
『ステージ・ドア』
キャサリン・ヘップバーン
と
『モーガン先生のロマン ス』
ジェームズ・ステュアート
と
・『恋愛手帖』
(1940年/監督:
サム・ウッド
)
で、アカデミー賞主演女優賞を受賞。
ベティ・デイヴィス
(『月光の女』)
、 キャサリン・ヘップバーン
(『フィラデルフィア物語』)
、
ジョーン・フォンテイン
(
『レベッカ』
)
といった強力なライバルたちに競り勝っての受賞。ダンスだけでな く、演技も一流と認められた。
(右の写真)オスカー像を手にするジンジャー・ロジャース
・1940年にフリーとなり、オールスター・キャストのオムニバス映画『運命の饗宴』
(1942年/監督:
ジュリアン・ デュヴィヴィエ
)
、
ビリー・ワイルダー
のハリウッドでの初監督作『少佐と少女』
(1942年)
などに出演。『少佐と少女』には母親のレラも出演した。
1942年には、ハリウッドで最高給の女優の1人となった。
(左の写真)『少佐と少女』 撮影時。母親のレラと
『運命の饗宴』(1942年)
ヘンリー・フォンダ
と
『恋の情報網』(1942年/監督:
レオ・マッケリー
)
ケーリー・グラント
と
・『ブロードウェイのバークレー夫妻』
(1949 年)
で、10年ぶりにフレッド・アステアと共演。病で降板した
ジュディ・ガーランド
の代役としての出演だったが、2人は以前と変わ らぬ息の合った ダンスを披露。コンビ最大のヒット作となった。
(右の写真)『ブロードウェイのバークレー夫妻』
フレッド・アステアと
・1950年代に入っても、後の大統領ロナルド・レーガンと共演したフィルム・ノワール 『目撃者』
(1951年)
、ケーリー・グラントと再共演した『モンキー・ビジネス』
(1952年/監督:
ハワード・ホークス
)
な どで、オスカー女優として貫禄の演技を披露した。
(左の写真)『モンキー・ビジネス』
ケーリー・グラント(左)、
マリリン・モンロー
(右)と
・映画への出演は『
Harlow
』
(1965年)
が最後となったが、1950年代後半からは舞台での活動を盛んにこなし、1965年には、ブロードウェイ の大ヒットミュージカル「ハロー・ドーリー!」の主役をキャロル・チャニングから引き継ぎ、好評を博した。
・1967年のアカデミー賞授賞式に脚本賞のプレゼンターとしてフレッド・アステアと共に登場。即興でダンスを披露し、会場を沸かせた。
1967年のアカデミー賞授賞式。司会の
ボブ・ホープ
も負けじと…
* 受賞者 : <脚色賞> ロバート・ボルト 『わが命つきるとも』 。<オリジナル脚本賞> クロード・ルルーシュ 『男と女』
・1969年には、ロンドンの舞台で「メイム叔母さん」のタイトル・ロールを演じ、1年以上のロング・ランとなった。
舞台女優としては1984年まで活動し、1985年、74歳の時にミュージカル「
Babes in Arms
」で初めて舞台監督を務めた。
(右の写真)英国のエリザベス女王(左)と
・1987年、TVドラマ・シリーズ「
Hotel
」に出演したのが、女優としての最後の仕事となった。
・
1995年
、
83歳
で他界。
・AFI
(アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝説のスター・ベスト50」 で、女優部門の第14位に選出。
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