20世紀・シネマ・パラダ
イス
◆ アカデミー賞作品賞を受賞したヒッチコック監督のハリウッド・デビュー作
‟わたし”は、上流階級のホッパー夫人の
付き人として雇われ、モンテカルロへやって来た。
ホテルのラウンジで、ホッパー夫人が顔見知りに声を掛けた。その人は、‟わたし”が散歩中に断崖付近で遭遇したイギリスの大富豪マキシムだった。彼は1年前に妻のレベッカを
ボートの事故で亡くしていた…。 |
ホッパー夫人が風邪で寝込んでしまった間、‟わたし”はマキシムに誘われてデートを重ね
た。 |
ホッパー夫人が急遽ニューヨークへ戻ることになり、
‟わたし”はマキシムに別れを告げに行ったが、彼からプロポーズを受けて結婚した。 |
マキシムの自宅は、荘園マンダレーに建つ大豪邸。大勢の使用人がいて、家事を取り仕切って
い
るのはダンバース夫
人だ。‟わたし”は、マンダレーでの生活、とりわけダンバース夫人に馴染むことが出来ないでいた。 |
マキシムの姉夫妻が訪ねて来た。‟わたし”は、マキシムの姉ベアトリスか
ら、ダンバース夫人がレベッカを慕っていたことを教えられた。 |
マキシムと散歩へ出かけた‟わたし”は、飼犬の後を追いかけているうちに、海岸のボート小
屋にたどり着いた。小屋の中にはレベッカの私物が放置されたままだった。‟わたし”
がボート小屋に入ったことで、マキシムはなぜか気分を害してしまった。 |
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‟わたし”は、レベッカのことが気になり、財産管理人のフランクに彼女のことを尋ねた。彼から返ってきた応えは、「誰よりも美しい方でした…」
というものだった。
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‟わたし”が家宝の骨董品をうっかり壊してしまった事で、使用人たちの間でちょっとしたい
ざこざが起こった。マキシムは、マンダレーでの生活になかなか馴染めない‟わたし”を気遣ってくれた。
普段は気の良いマキシムだが、先妻レベッカの話になると人が変わったように不機嫌になってしまう…。
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マキシムが留守の日に、レベッカの従兄弟だと称するジャックが、ダンバース夫人を訪ねて来ていた。
ジャックは、自分はマキシムに嫌われているので、ここへ来たことは内緒にしておいてくれと言い残し、足早に立ち去った。
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‟わたし”は、意を決してレベッカの部屋に入ってみた。すると、ダンバース夫人が後から現
れた。彼女はレベッカの豪華な衣装の数々を見せ、生前の生活ぶりを話して聞かせ
た。
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‟わたし”は、今だにマンダレーを支配しているレベッカの存在に圧倒されてしまった。
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いつまでも死んだレベッカの影に怯えている訳にはいかない。‟わたし”は、居間にあるレ
ベッカの私物を処分するようダンバース夫人に命じた。
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‟わたし”は、自分がマンダレーの新しい女主人であることを示す為にも、舞踏会を開催する
こ
とをマキシムに願い出て、了解された。
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‟わたし”が舞踏会で着る衣装に悩んでいると、ダンバース夫人が、祖先の肖像画が飾られて
いる2階へ案内してくれた。そして、ある女性の画の前で止
まり、この衣装はマキシムのお気に入りだと教えてくれた。‟わたし”は、その画と同じ衣装を着て、舞踏会に出ることに決めた。
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‟わたし”は、マキシムを驚かせるつもりで、衣装の事を秘密にしていた。いよいよ舞踏会の
夜。来賓も集まって来た。衣装を纏った‟わたし”は、マキシムがさぞ喜ぶだろうとの期待に胸を膨らませ、階段を降りていった。
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ところが、マキシムは衣装を目にした途端、顔を曇らせ頭を抱えてしまった。彼の
隣にいた姉のベアトリスが思わず口走った。「レベッカの衣装だわ…」。マキシムが怒鳴った。「すぐに衣装を着替えてこい」。
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とんでもないことをしてしまったと気がつき、2階へ駆け込んだ‟わたし”に、ダンバース夫
人が追い打ちをかけてきた。「レベッカ様とは比べ物にならないわ…。あなたにレベッカ様の代わりはできない…。旦
那様は彼女を亡く
した悲しみに暮れていた…」。
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‟わたし”がベッドで泣き崩れていると、ダンバース夫人が風に当たるようにと窓辺へ誘い出
し、私の耳元で悪魔の如く囁いた。「旦那様はあなたなど愛してはいな
い…。ここにいる理由はないわ。生きている理由もない。下をご覧なさい。簡単よ…」。‟わたし”が正気を失いかけた時、花火が打ち上げられ、その
音で、‟わたし”は正気を取り戻すことが出来た。
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花火は、沖で船が難破したことを知らせるものであった。男性たちは皆、難破船の捜索へ出か
け
た。
帰りの遅いマキシムを探しに海岸へ行った‟わたし”は、フランクから、難破船の捜索中にレベッカのボートも発見されたことを知らされた。
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マキシムは憔悴しきった様子でボート小屋にいた。‟わたし”が衣装のことを謝ると、彼は、
「2人の結婚は終わりだ。レベッカが勝ったのだ 」と言った。
‟わたし”は、マキシムから意外な真実を聞かされた。墓で眠っている遺体はレベッカではなく、先程ボートと一緒に発見された遺体がレベッカだと。
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レベッカは初めからマキシムを愛しておらず、彼が家名を重じて離婚しないことを
計算ずくで結婚し、取引を持ちかけたという。
彼女は、世間的には理想の夫婦を演じて見せる代わりに好き勝手な行動をしてい
たのだ。ジャック(彼は愛人だった)とも、このボート小屋で密会を重ねていたそうだ。
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レベッカから、他人の子を身籠ったと告げられ、カッとなったマキシムは彼女を
殴った。微笑みながら立ち上がったレベッカは、自分で転び、工具に頭をぶつけて死んだ。
事故だと信じてもらえないと思ったマキシムは、レベッカの死体
をボートで沖に運び、海に沈めたのだった。
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レベッカの死について警察で尋問会が開かれた。傍聴席にはダンバース夫人やジャックも
来ていた。船大工が、ボートの穴は内側から開けられており、事故ではなく沈められたものだと証言して会場が騒めいた。
自分で穴を開けた自殺か、それとも誰
かが
穴を開けた殺人か?
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マキシムが証人として尋問を受けている時に、‟わたし”は失神してしまい、それを機に尋問
会は昼休みとなった。
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車の中で昼食をとっていると、ジャックが乗り込んできた。彼は、レベッカが自殺ではない証
拠を持っていると言って、マキシム
をゆすり始めた。
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マキシムはジャックをレストランの個室に連れて行き、警察署長を同席させた。
ジャックは、レベッカが死んだ日の彼女からの手紙を見せ、自殺ではない証拠であり、他人の子を身篭ったレベッカをマキシムが殺したのだと主張した。
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レベッカの妊娠を立証する証人としてダンバース夫人が呼ばれた。レベッカの名誉を重んじる
ダンバース夫人は口を閉ざしていたが、マキシムに殺された可能性があると聞き、秘密にしていたレベッカの主治医の名前を明らかにした。
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マキシム、フランク、ジャック、警察署長の4人が、ロンドンのレベッカの主治医のもとを訪
ねた。そして、誰1人予期していなかった真相を知ることとなった…。
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『レベッカ』 予告編
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◆ 主な出演者など
・独立系の映画製作者デビッド・O・セルズニックに招かれ、イギリスからアメリカへ渡ったアルフレッド・ヒッチコック監督のハリウッド・デビュー作。
製作現場に過度に介入することで知られていたセルズニックは、『レベッカ』の撮影にも度々干渉してヒッチコック監督を悩ましたという。
(右の写真)セルズニック(左)とヒッチコック監督 |
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・原作者は女流作家のダフネ・デュ・モーリア。ヒッチコック監督の『巌窟の野獣』(1939年)、『鳥』(1963年)の原作者でもある。
原作では、レベッカはマキシムに殺されたことになっているが、殺人者が罰を受けないという設定は、当時の映画倫理コードに抵触するため事故死に変更され
た。
(左の写真) 左から、ヒッチコック監督、ジョーン・フォンテイン、ローレンス・オリヴィエ
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・アカデミー賞では、作品賞など11部門でノミネート。この年は、『チャッ
プリンの独裁者』と『怒りの葡萄』の一騎打ちとの前評判だった
が、2作とも、その社会的なメッセージがアカデミー協会会員に敬遠され、『レベッカ』
が作品賞を受賞。しかし、他の主要部門では受賞を逃し、作品賞と撮影賞(白黒部門)の2冠という珍記録を
打ち立てている。 (右の写真)左から、セルズニック、ジョーン・フォンテイン、ヒッチコック監督。アカデミー賞授賞式
会場にて。
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・主演女優賞にノミネートされていたジョーン・フォンテインが受賞していたら、役名がない
ヒロインを演じてのオスカー受賞という、これまた珍記録となっていた。
本作で人気女優となった彼女
は、ヒッチコック監督との2作目『断崖』(1941年)で、
念願のオスカーを獲得することとなる。
(左の写真)アカデミー賞授賞式会場でのジョーン・フォンテインとヒッチコック監督
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◆ ヒッチコック監督 お約束のカメオ出演シーン
映画の終盤、ジョージ・サンダース扮するジャックが公衆電話から出て、警官と話している
シーンに通行人として登場(左下の写真)。余程注意していないと分からない。(右下は宣伝用写真)
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◆ ピック・
アップ … ジョージ・サンダース
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George
Sanders 1906-1972
(イギリス)
・1906年、ロシアのサンクトペテルブルク生まれ。両親ともイギリス人。ロシア革命の勃発に伴い、家族でイギリスへ移住。
・俳優になる前は広告代理店に勤務していたが、その会社の秘書はグリア・ガースンだっ
た。
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・1934年、ロンドンで舞台俳優としてデビュー。同年、端役ながらも銀幕デビューも果た
し、1936年にハリウッドへ。
・『イヴの総て』(1950年)
で、アカデミー賞助演男優賞を受賞した。 |
・小説家、音楽家(歌と作曲)としても活動。私生活では皮肉屋として有名
で、1960年に出版した自伝のタイトルは 「Memoirs of a Professional Cad 」。Cad は
「ゲス野郎」といった意味。滅多にサインにも応じず、「嫌な奴」を楽しんでいたとか。
・生涯で4度結婚したが、2番目の妻は女優のザ・ザ・ガボール、3番目の妻はロナルド・
コールマンの未亡人ベニタ・ヒューム。そして、4番目の妻はザ・ザ・ガボールの姉のマグダ・ガポール。
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・1972年、65歳の時にスペインで自殺。遺書には、「退
屈だからこの世を去る…」
と書かれていた。認知症を患い、健康が悪化していたとも言われている。また、若い時から、「65歳で死ぬ」と宣言していたとの話もあるよう
です。 |
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