20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
Fritz Lang

フリッツ・ラング

Fritz Lang

 
1890-1976(オーストリア)

Megaphonrbar


   代表作

Dr.Mabuse Die_Nibelungen-1
ドクトル・マブゼ
Dr. Mabuse, der Spieler
 (1922年/ドイツ)
ニーベルンゲン
Die Nibelungen
 (1924年/ドイツ)
metropolis-4
M-4
メトロポリス
Metropolis
(1927年/ドイツ)
M

(1931年/ドイツ)
Fury You Only Live Once-2
激怒
Fury
(1936年/アメリカ)
暗黒街の弾痕
You Only Live Once
(1937年/アメリカ)
Hangman Also Die! The Woman in the Window-2
死刑執行人もまた死す
Hangmen Also DIe!
(1943年/アメリカ)
飾窓の女
The Woman in the Window
(1944年/アメリカ)


    戦前のドイツ映画界を代表する大監督

 ・1890年、 オーストリアのウィーン生れ。建築家を志して大学に進学したが、絵画など美術方面に興味を抱き、卒業後、4年に及ぶ世界旅行に出立。日本にも訪れた。パリ で絵画を学んでいるときに第1次世界が勃発し、1914年から2年間、オーストリア軍に従軍。戦場で負傷し、療養中に執筆し始めた脚本がドイツで映画化(1916年〜)され、戦後の1918年にベルリンへ移住。映画製作者エリッヒ・ポマーのデクラ社(後にウーファー社に統合)と契約した。

 ・『Halbblut(1919年)で監督デビュー。
 自ら脚本も書いた冒険映画『蜘蛛 第1部:黄金の湖』(1919年)が好評で、翌年に続編『蜘蛛 第2部:ダイヤの船』も製作された。日本を舞台にした『Harakiri (1919年)という作品も撮った。
 (右の写真)『Harakiri 』のポスター 
Harakiri

Destiny
 ・初期の傑作『死滅の谷(死神の谷)』(1921年)を発表。ルイス・ブニュエルが映画を撮るきっかけとなった作品の1つであり、アルフレッド・ヒッチコックのお気に入りでもあった作品。
 (左の写真)『死滅の谷(死神の谷)』

 ・「大賭博師」、「犯罪地獄」の2部構成で4時間半の大作『ドクトル・マブゼ』(1922年)を発表。世界各国で大ヒットし、ラング監督の名声を確立した犯罪映画の古典的名作。 
 (右の写真)『ドクトル・マブゼ』
Dr. Mabuse

 ・ドイツ・ゲルマン民族の国民的叙事詩「ニーベルンゲン」を映画化。第1部『ニーベルンゲン : ジークフリート』、第2部『ニーベルンゲン : クリームヒルトの復讐』(1924年)を合わせると約5時間の超大作。ラング監督の名声を不動のものとした。
Die Nibelungen-2 Die_Nibelungen-3
『ニーベルンゲン:ジークフリート』(1924年) 『ニーベルンゲン:クリームヒルトの復讐』(1924年)

 ・SF映画の金字塔『メトロポリス』(1927年)を発表。ドイツ映画史上最高額とも言われる巨費を投じた超大作。
Metropolis-5
Metropolis-2
『メトロポロス』(1927年)
撮影時のラング監督 (一番右)
Woman_in_the_Moon
Woman_in_the_Moon-2
『月世界の女』(1929年)
ゲルダ・マウルス

『月世界の女』撮影時

 ・自身初のトーキー作品『M』(1931年)を発表。サイコスリラーの古典的名作で、ラング監督本人のお気に入りの作品。
M-5
M-2
『M』(1931年)
 ピーター・ローレ

撮影時。ピーター・ローレ(左)と

Lang-2
 ・『ドクトル・マブゼ』の続編『怪人マブゼ博士』(1933年)は、同年に成立したヒトラー政権により上映禁止となった。
 母親がユダヤ人だったラング監督は、翌1934年にフランスへ亡命した。

 ・ドイツ時代のラング監督を支えていたのが、脚本家のテア・フォン・ハルボウ。『Das wandernde Bild(1920年)で初めてコンビを組み、以後、ドイツ時代のラング監督の全作品に携わった。
 『メトロポリス』で発明家のロートヴァングを演じたルドルフ・クライン=ロッゲと結婚していたが、離婚して1922年にラング監督と結婚。1933年に離婚し、ナチスを支持していた彼女はドイツに留まった。
Thea_von_Harbou

 ・フランスで、エリッヒ・ポマー製作のファンタジー映画『リリオム』(1934年/主演:シャルル・ボワイエを監督した後、アメリカへ渡り、市民権を取得。

 ・ハリウッドにおいても、フィルム・ノワールの『激怒』(1936年)、『暗黒街の弾痕』(1937年)、『飾窓の女』(1944年)、反ナチスのサスペンス『マン・ハント』(1941年)、『死刑執行人もまた死す』(1943年)といった傑作を撮った。
Fury-2
Fury-3
『激怒』(1936年)
スペンサー・トレイシーシルヴィア・シドニー

『激怒』撮影時
シルヴィア・シドニーと

You_Only_Live_Once-3
You_Only_Live_Once-4
『暗黒街の弾痕』(1937年)
シルヴィア・シドニー、ヘンリー・フォンダ

『暗黒街の弾痕』撮影時
ヘンリー・フォンダ(右)と
Man_Hunt.
Man_Hunt-2
『マン・ハント』(1941年)
ウォルター・ピジョン(中央)

『マン・ハント』撮影時
ジョーン・ベネット
The_Woman_in_the_Window-3
The_Woman_in_the_Window-4
『飾窓の女』(1944年)
ジョーン・ベネット、エドワード・G・ロビンソン

『飾窓の女』撮影時
エドワード・G・ロビンソン(左)と
Scarlet Street
Scarlet_Street-2
『緋色の街/スカーレット・ストリート』(1945年)
ジョーン・ベネット、エドワード・G・ロビンソン
『緋色の街/スカーレット・ストリート』撮影時
ジョーン・ベネットと
Cloak_and_Dagger
Cloak_and_Dagger-2
『外套と短剣』(1946年)
ゲーリー・クーパー、リリー・パルマー

『外套と短剣』撮影時
ゲーリー・クーパー、リリー・パルマーと
Rancho Notorious
Rancho Notorious-2
『無頼の谷』(1952年)
マレーネ・ディートリッヒ

『無頼の谷』撮影時
マレーネ・ディートリッヒと
Clash_by_Night
Clash_by_Night-2
『熱い夜の疼き』(1952年)
ポール・ダグラス、バーバラ・スタンウィック
『熱い夜の疼き』撮影時
バーバラ・スタンウィックと
The_Big_Heat
The_Big_Heat-2
『復讐は俺に任せろ』(1953年)
グロリア・グレアム、グレン・フォード

『復讐は俺に任せろ』撮影時
グレン・フォードと

Beyond_a_Reasonable_Doubt
Beyond_a_Reasonable_Doubt-2
『条理ある疑いの彼方に』(1956年)
ダナ・アンドリュースジョーン・フォンテイン

『条理ある疑いの彼方に』撮影時
ジョーン・フォンテインと

 ・1958年、西ドイツへ戻り、『大いなる神秘:王城の掟』、『大いなる神秘:情炎の砂漠』(1958年)、『怪人マブゼ博士』(1960年)の3作を監督。最後の作品となった。

 ・フランスのジャン=リュック・ゴダール監督の要請により、『軽蔑』(1963年)に本人役で出演。 
 ゴダール監督などヌーヴェルヴァーグの監督たちの中では、ドイツ時代の作品よりもハリウッド時代の作品の方が評価されているとの話もある。
 (右の写真)『軽蔑』より
Lang-3

 ・1976年85歳で他界。晩年はアメリカで過ごした。
 

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