20世紀・シネマ・パラダイス
ルイス・ブニュエル
Luis Bunuel
1900-1983 (スペイン/メキシコ)
◆
代表作
アンダルシアの犬
Un Chien Andalou
(1928年/フランス)
黄金時代
L'Age d'or
(1930年/フランス)
忘れられた人々
Los Olvidados
(1950年/メキシコ)
ビリディアナ
Viridiana
(1961年/スペイン・メキシコ)
昼顔
Belle de jour
(1967年/フランス・イタリア)
ブルジョワジーの秘かな愉しみ
Le Charme discret de la bourgeoisie
(1972年/フランス)
◆
映画界唯一無二の奇才
・
1900年
、スペインのアラゴン地方生まれ。少年時代はイエズス会の厳格なミッション・スクルールに通った。
17歳の時にマドリードへ出て、「学生館」でサルバドール・ダリ
(画家/1904年生)
、フェデリコ・ガルシア・ロルカ
(詩人/1898年生)
と出会い、交友を深めた。
・1925年、パリへ出て映画界入り。
ジャック・フェデー
監督の『カルメン』
(1926年)
等に出演
(端役)
したり、ジャン・エプスタン監督の『アッシャー家の末裔』
(1928年)
等の助監督を務めたほか、映画批評の仕事にも携わった。
… ブニュエルは、最も影響を受けた映画として、
フリッツ・ラング
監督の『死滅の谷』
(1921年)、『ニーベルンゲン』
(1924年)、
『メトロポリス』
(1927年)等をあげている。
・1929年、初の監督作品『アンダルシアの犬』
(フランス)
を発表。
サルバドール・ダリと共に、自分たちが見た夢をもとに脚本を書き、ブニュエルの母親が資金援助をして完成させた16分の短編。ブニュエルとダリも出演。
シュールリ アリズムの先駆的作品、古典的名作となった。
(右の写真)『アンダルシアの犬』でのルイス・ブニュエル
・ジャン・コクトーら芸術家たちの後援者であったノワイエ公爵夫妻からの出資を得て、60分の中編『黄金時代』
(1930年/フランス)
を監督。宗教や特権階級を痛烈に皮肉ったブラックでア ナーキーな作品。
スクリーンにインクが投げつけられる事件があり、上映禁止となった。共同脚本家のダリとは、本作撮影中に袂を分けた。
(左の写真)ルイス・ブニュエル
・ハリウッドへ渡り、MGM社とスペイン語のスーパーバイザーとして契約。
マリー・ドレスラー
がアカデミー賞主演女優賞を受賞した『惨劇の波止場』
(1930年)
等に携わった。
ハリウッド映画の技術を学ぶ目的もあったようだが、契約を早々に打ち切り、スペインへ帰国。
・友人が宝くじで大当りした賞金で、スペインの貧しい人々の生活を描いた27分の短編ドキュメンタリー『種なき土地』
(1932年/スペイン)
を撮ったが、同国では国辱映画として公開禁止となった。
・1936年、スペイン内戦勃発。友人のロルカがファシスト派により銃殺された。ブニュエルは商業映画の製作、監督に従事しながら、共和国派の為に奔走した。
(右の写真)ダリ(左)とロルカ(右)
・1939年、スペイン内戦はフランコ将軍率いるファシスト派が勝利。
・その時期アメリカにいたブニュエルは同国に留まり、ニューヨーク近代美術館で映画を収集する仕事に就いた。1942年、アメリカの市民権を申請したが、ダリが自著の中で「
ブニュエルは無神論者だ
」と記載したことで、ブニュエルは辞職へ追い込まれた。
その後ハリウッドへ行き、ワーナー・ブラザーズ社の作品のスペイン語版の製作に携わった。
・1946年、メキシコへ渡り、ロルカの戯曲「ベルナルダ・アルバの家」の映画化を模索したが断念。
ロシアから亡命してきた映画製作者のオスカル・ダンシヘルスと組んで、ミュージカル『グラン・カジノ』
(メキシコ)
を撮ったが、興行的には失敗作となった。
・1948年、メキシコの市民権を取得。
(左の写真)ルイス・ブニュエル
・コメディ『のんき大将』
(1949年)
がヒットし、ダンシヘルスから、より自由に映画を撮ることを許されたブニュエルは、『忘れられた人々』の製作に着手。
・1950年、『忘れられた人々』公開。メキシコのスラム街で、生きる為にストリート・ギャングになって悪事を働く子供たちの姿を描いた作品。メキシコでは自国を侮辱するものだとして公開3日間で打ち切りとなった。
しかし、詩人・外交官のオクタビオ・パス
(1990年にノーベル文学賞受賞)
の働きかけで、カンヌ国際映画祭に出品され、ブニュエルは監督賞を受賞。メキシコでも再公開された。2003年、ユネスコの「世界の記憶」に登録された作品。
『幻影は市電に乗って旅をする』
(1953年のコメディ映画)
『嵐が丘』
(1953年の文芸映画)
・フランス資本で、「革命3部作」とも呼ばれている 『それを暁と呼ぶ』
(1956年/フランス・イタリア)
、『この庭での死』
(1956年/フランス・メキシコ)
、『熱狂はエル・パオに達す』
(1959年/フランス・メキシコ)
を監督。
『熱狂はエル・パオに達す』は、
ジェラール・フィリップ
の遺作となった。
(右の写真)『熱狂はエル・パオに達す』 ジェラール・フィリップ、マリア・フェリックス
・フランコ将軍のスペインに招かれて撮った『ビリディアナ』
(1961年)
で、カンヌ国際映画祭グランプリ
(パルム・ドール)
を受賞。
スペインでは、キリスト教を冒涜しているとのことで上映禁止となった。
(左の写真)『ビリディアナ』 乞食たちの「最後の晩餐」シーン
・再びメキシコで、『皆殺しの天使』
(1962年)
を監督。
『ビリディアナ』に引き続きヒロインに起用されたシルヴィア・ビナルは、ブニュエルの『砂漠のシモン』
(1965年/メキシコ)
でもヒロインを務め、メキシコを代表する大女優となった。
この3作品の製作者グスタボ・アラトリステは彼女の当時の夫であり、ブニュエルに最も自由に映画を撮らせた製作者だったと言われている。
(右の写真)シルヴィア・ビナル
・フランスで、
ジャンヌ・モロー
主演の『小間使いの日記』
(1963年)
を監督。
ジャン・ルノワール
監督が、
ポーレット・ゴダード
主演で映画化
(1946年)
している作品だが、影響を受けることを恐れて、ルノワール版は観ずに撮影に臨んだという。
(左の写真)ジャンヌ・モローと
・1966年、ダリから『アンダルシアの犬』の続編のオファーを受けたが、ブニュエルが断り実現せず。
・
カトリーヌ・ドヌーヴ
主演の『昼顔』
(1967年/フランス・イタリア)
が、ヴェネチア国際映画祭でグランプリ
(金獅子賞)
を受賞。
カトリーヌ・ドヌーヴは、『哀しみのトリスターナ』
(1970年/フランス・イタリア・スペイン)
でもヒロインを務めた。
(右の写真)カトリーヌ・ドヌーヴと
・1969年、ヴェネチア国際映画祭の栄誉金獅子賞を受賞。同賞の最初の受賞者だった。
・1972年、製作者のセルジュ・シルベルマン、脚本家のジャン・クロード・カリエールと共にアメリカへ。ハリウッドの巨匠たちと会談し、その時には不在だった敬愛するフリッツ・ラング監督とも後日面会した。
(上の写真)前列左から、
ビリー・ワイルダー
、
ジョージ・スティーヴンス
、ルイス・ブニュエル、
アルフレッド・ヒッチコック
、
ルーベン・マムーリアン
後列左から、ロバート・マリガン、
ウィリアム・ワイラー
、
ジョージ・キューカー
、
ロバート・ワイズ
、
ジャン・クロード・カリエール、セルジュ・シルベルマン
*
セルジュ・シルベルマン … ブニュエル作品『小間使いの日記』、『銀河』、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、『自由の幻想』、『欲望のあいまいな対象』を製作。他に、黒澤明の『乱』(共同制作)、大島渚の『マックス、モン・アムール』などを製作。
*
ジャン・クロード・カリエール … ブニュエル作品『小間使いの日記』、『昼顔』、『銀河』、
『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、『自由の幻想』、『欲望のあいまいな対象』の脚本家。他に、『ブリキの太鼓』、『
マックス、モン・アムール』など。
・ブラック・コメディ『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』
(1972年)
で、アカデミー賞外国語映画賞を受賞。
授賞式の前に、マスコミからオスカーを獲れるかと質問されたブニュエルは、「
大丈夫さ、約束の金はちゃんと払ったから
」とジョークを飛ばしたが、この発言はひと騒動を巻き起こした。
(左の写真)オスカー像を手にするブニュエル。何故かカツラとサングラス姿
・オムニバス形式のブラック・コメディ『自由の幻想』
(1974年/フランス・イタリア)
を撮り、『欲望のあいまいな対象
』(1977年/フランス・スペイン)
を最後に映画界から引退。
(右の写真)左から、キャロル・ブーケ、フェルナンド・レイ、ブニュエル監督
・
1983年
、自伝「映画、わが自由の幻想」を出版。同年、メキシコシティにて
、83歳
で他界。
アルフレッド・ヒッチコック監督のブニュエル評 「
世界で最も偉大な監督
」
ルキノ・ヴィスコンティ
監督のブニュエル評 「
真に新しく、興味をひくことのできる唯一の監督
」
HOME