20世紀・シネマ・パラダ イス

Megaphonebar
George Cukor

ジョージ・ キューカー

George Cukor

 
1899-1983 (アメリカ)

Megaphonrbar


   代表作

Little_Women
Romeo_and_Juliet
若草物語
Little Women
(1933年/アメリカ)
ロミオとジュリエット
Romeo and Juliet
(1936年/アメリカ)
Camille The_Philadelphia_Story
椿姫
Camille
(1937年/アメリカ)
フィラデルフィア物語
The Philadelphia Story

(1940年/アメリカ)
Gaslight
Adam's_Rib
ガス燈
Gaslight

(1944年/アメリカ)
アダム氏とマダム
Adam's Rib

(1949年/アメリカ)
A_Star_Is_Born
My Fair Lady
スタア誕生
A Star Is Born

(1954年/アメリカ)
マイ・フェア・レディ
My Fair Lady

(1964年/アメリカ)


    女性映画の第一人者

 ・1899年、ニューヨーク生まれ。両親はユダヤ人。地方検事だった父親 の後を継ぐことを期待され、法律を学ぶためにニューヨーク市立大学シティカレッジに入学したが、本人はもともと乗り気でなく 数ヶ月で退学。興味のあった演劇の世界に入り、1919年に役者としてブロードウェイ・デビュー。その後、舞台監督として活躍した。

 ・1929年、パラマウント社と台詞監修者として契約。トーキーの時代に入ったハリウッドでは、役者に台詞を指導できる人材が求められていたのだ。初仕 事はチャールズ・ロジャース主演の『ロマンスの河』(1929年)の台詞監修。ユニヴァーサル社に貸し出され、『西部戦線 異状なし』(1930年)の台詞監修も手掛けた。

 ・3本の映画で共同監督を務めた後、『心を汚されし女』(1931年)で1人立ち。3本目の『君とひととき』(1932年)を撮影 中、主演のモーリス・シュバリエと衝突し、残りはエルンスト・ルビッチ監督が撮った。完成したフィルムに監督としてクレジットされた のはルビッチだけで、キューカーはパラマウント社と袂を分かち、同社からRKO社へ移っていたデビッド・O・セルズニックの招きに応じた。
 (右の写真)『君とひととき』撮影時。手前から3人目がキューカー。その奥はルビッチ 
One_Hour_with_You

Cukor_&_Selznick  ・キューカーの手腕をいち早く認めていたのがデビット・O・セルズニック。
 キューカーはセルズニックの後を追うように、パラマウント社、RKO社、MGM社と会社を移って行った。
 (左の写真)キューカー(左)とセルズニック

 ・RKO社での2作目、ジョン・ バリモア主演の『愛の嗚咽』(1932年/製作:デビッド・O・セルズニックでは、キャサリン・ヘップバーンが 銀幕デビュー。ヘップバーンとの2作目『若草物語』(1933年)は、RKO社でのキューカーの最大の ヒット作となった。
 (右の写真)『若草物語』撮影時。左から時計回りに、キューカー、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・ベネット、ジーン・パーカー、フランシス・ディー
Little Women-2

Dinner_at_Eight
 ・MGM社での最初の作品も、セルズニック製作のオールスター・キャスト作品『晩餐八時』(1933年)だった。
 その後、ノーマ・シアラー主演の『ロミオとジュリエット』(1936年)グレタ・ガルボ主演の『椿姫』(1937年)等、同社の人気女優の作品をヒットさせ、女性映画の第一人者と称されるようになった。出演者が女 優だけの『ザ・ウィメン』(1939年)といった作品も撮っている。
 (左の写真)『晩餐八時』撮影時。ジーン・ハーロー

Romeo_and_Juliet-3
Camille-3
『ロミオとジュリエット』(1936年) 撮影時
ノーマ・シアラーと
『椿姫』(1937年) 撮影時
グレタ・ガルボと

(右の写真) 『ザ・ウィメン』(1939年)出演女優たちと
  ロザリンド・ラッセル(左から3番目)
 ジョーン・クロフォード(左から4番目)
 ノーマ・シアラー(右から4番目)
 ポーレット・ゴダート(右から3番目)
 ジョーン・フォンテイン(1番右)
The Women

Gone_with_the_Wind-2
 ・MGM社で『オ ズの魔法使』(1939年)を撮影中、セルズニックに『風と共に去りぬ』(1939年)の 監督として引き抜かれたが、演出に関して2人の意見が対立した。
 (左の写真)『風と共に去りぬ』のメンバーたちと
 右から時計回りに、キューカー、オリヴィア・デ・ハヴィランドヴィヴィアン・リー、セルズニック、レスリー・ハワード

 ・更に、女優陣にばかり気を使うキューカーに対して、クラーク・ゲーブルが不満を持ち、キューカーは撮影開始から20日間程で解任された。
 解任後も、ヴィヴィアン・リーやオリヴィア・デ・ハヴィランドなどの女優陣は、キューカーの元を訪ね、演技指導を仰いでいたとも言われている。
 (右の写真) キューカー(左)とクラーク・ゲーブル
Cukor and Gable

 ・演技指導に定評のあったキューカーは、20名もの俳優をアカデミー賞演技賞の候補者とし、内5 名にオスカーをもたらした。『フィラデルフィア物語』(1940年)ジェームズ・ステュアート、『ガス燈』(1944 年)イングリッド・バーグマン、『二重生活』(1947年)ロナルド・コールマン、 『Born Yesterday(1950年)のジュディ・ホリデイ、そして、『マイ・フェア・レディ』(1964年)レックス・ハリソン
The Philadelphia Story-2 Two-Faced_Woman
『フィラデルフィア物語』(1940年) 撮影時
キャサリン・ヘップバーン、ジェームズ・ステュアート(中央)と
奥様は顔が二つ』(1941年)撮影時
グレタ・ガルボと

Gaslight-2
A Double Life
『ガ ス燈』(1944年)撮影時
シャルル・ボワイエ(左)、イングリッド・バーグマンと
『二重生活』(1947年) 撮影時
ロナルド・コールマン(左)、ウォルター・ハムデン(右)と
 * ウォルター・ハムデン … ブロードウェイで大活躍した名優。映画『イヴの総て』(1950年)、『麗しのサブリナ』(1950年)等にも出演。『二重生活』では、シェークスピア劇のアドバイザーを務めた。

Adam's_Rib-2
Born Yesterday
『アダム氏とマダム』(1949年) 撮影時
スペンサー・トレイシー(中央)、キャサリン・ヘップバーンと
Born Yesterday』(1950年)撮影時
ウィリアム・ホールデン(左)、ジュディ・ホリデイと
A_Star_Is_Born-2
Let's_Make_Love
『スタア誕生』(1954年)撮影時
ジュディ・ガーランド

『恋をしましょう』(1960年)撮影時
マリリン・モンロー

My Fair Lady-2 The_Blue_Bird
『マイ・フェア・レディ』(1964年)撮影時
レックス・ハリソン(左)、オードリー・ヘップバーン
『青い鳥』(1976年)撮影時
エリザベス・テイラー


 ・キューカー監督自身は、『若草物語』、『フィラデルフィア物語』、『二重生活』、『Born Yesterday』でアカデミー賞監督賞にノミネートされ、5度目のノミネート作『マイ・フェア・レディ』で、念願の監督賞を受賞した。

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 アカデミー賞授賞式。プレゼンターはジョーン・クロフォード



 ・グレタ・ガルボ、ヴィヴィアン・リー、イングリッド・バーグマン、ジュディ・ガーランド、マリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーン、エリザベス・テイラー …。多くのスーパースターの作品を撮ったキューカー監督だが、特筆すべき存在がキャサリン・ヘップ バーン。

Hepburn Cukor  ・キャサリン・ヘップバーンとは、8本の劇場用映画 …『愛の嗚咽』、『若草物語』、『男装』、『素晴らしき休日』、『フィラデルフィア物語』、『火の女』、『アダム氏とマダム』、『パットとマイク』… と2本のTVドラマで組み、私生活でも、生涯に渡り、信頼と友情で結ばれていたという。
 (左の写真)最後のコラボ作品となったTV 『The Corn is Green』(1979年)の撮影時。キャサリン・ヘップバーンと

 ・『ベスト・フレンド』(1981年)が 遺作となった。当初、『アラバマ物語』 (1962年)のロバート・マリガン監督で撮影がスタートしたが、俳優組合のストライキで撮影が中断。マリガンのスケジュールが合わなくなり、主役で共同製作者でも あったジャクリーン・ビセットが、当時82歳のキューカーに監督を依頼した。
 (右の写真)『ベスト・フレンド』撮影時。キャンディス・バーゲン(左)、ジャクリーン・ビセットと
Rich and Famous

 ・1983年83歳で他界。同性愛者だったそうで生涯独身を通した。


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