20世紀・シネマ・パラダ イス
ロザリン ド・ラッセル
Rosalind Russell
1907-1976 (アメリカ)
◆
代表作
城砦
The Citadel
(1938年/英・米)
ヒズ・ガール・フライデー
His Girl Friday
(1940年/アメリカ)
ピクニック
Picnic
(1955年/アメリカ)
メイム叔母さん
Auntie Mame
(1958年/アメリカ)
◆
ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞を5度受賞
・
1907年
、コネチカット州生れ。7人兄妹の4人目で、両親が旅行した際 に乗った客船の名を命名された。ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで演技を学び、地方劇団での活動を経て、1930年にブロードウェイ・デビューした。
・1930年代初頭、ユニヴァーサル社と契約したが、スタジオの雰囲気に馴染めず、MGM社に移って、
ウィリアム・パウエル
と
マー ナ・ロイ
主演の『悪夢』
(1934年)
で銀幕デビューした。
当時のMGM社は、「
夜空の星よりも多くのスターを抱えている
」 と謳われていた全盛期。彼女は主にマーナ・ロイのスケジュールやギャラが合わなかった時の代替要員だったという。
(右の写真)『悪夢』 ウィリアム・パウエルと
・MGM社がイギリスで製作した『城砦』
(1938年/監督:
キング・ヴィダー
)
、キャストが全て女性のコメディ 『ザ・ウィメン』
(1939年/監督:
ジョージ・キュー カー
)
といった傑作に出演し、知名度を上げていった。
『城砦』(1938年)
ロバート・ドーナット
と
『ザ・ウィメン』(1939年)
ジョーン・クロフォード
(左)、
ノーマ・シアラー
(中央)と
・コロンビア社に貸し出されて、スクリューボール・コメディ 『ヒズ・ガール・フライデー』
(1940年/監督:
ハワー ド・ホークス
)
に出演。『犯罪都市』
(1931年)
のリメイク作だが、彼女の出演が決まる前に、実に10名以上の人気女優たちが候補となり、本人やスタジオの都合で出演を見合わせていた。
(左の写真)『ヒズ・ガール・フライデー』
ケー リー・グラント
と
・『ヒズ・ガール・フライデー』への出演は彼女に幸運をもたらした。コメディエンヌとしての資質を発揮して代表作と なっただけでなく、撮影中、ケーリー・グラントがキューピットの役割を果たして、夫となる演劇・映画製作者のフレデリック・ブリソンと出会った。
(右の写真)夫のフレデリック・ブリソンと
・1941年、フレデリック・ブリソンと結婚。結婚式での花婿付添人(Best Man)はケーリー・グラントだった。フレデリックとの間で息子を授かり、彼女が亡くなるまで連れ添った。
(左の写真)ロザリンド・ラッセル夫妻(中央)の結婚式時。花婿付添人のケーリー・グラント(右)と
『
No Time for Comedy
』(1940年)
ジェームズ・ステュアート
と
『
They Met in Bombay
』(1941年)
クラーク・ゲーブル
と
・コメディ『
My Sister Eileen
』
(1942年)
でアカデミー賞主演女優賞に初ノミネート。小児麻痺の治療に尽力した実在の看護師を演じた『世界の母』
(1946年)
でアカデミー賞主 演女優賞にノミネート(2回目)。オスカーは逃したが、ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞を受賞した。
『
My Sister Eileen
』(1942年)
ブライアン・エイハーンと
『世界の母』(1946年)
・ユージン・オニールの戯曲を映画化した『喪服の似合うエレクトラ』
(1947年)
でアカデミー賞主演女優賞にノミネート(3回目)。ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞を受賞(2回目)。
(右の写真)『喪服の似合うエレクト ラ』
カーク・ダグラス
と
・ブロードウェイで『
My Sister Eileen
』のミュージカル版「
Wonderful Town
」
(1953〜1954年)
に出演。トニー賞の主演女優賞を受賞。
・ピューリッツァー賞を受賞した戯曲の映画化作品
『ピクニック』
(1955年)
でオールド・ミスの女教師を好演したが、本人が助演女優にカテゴリーされるのを嫌い、有力視されていたアカデミー賞にノミネートされなかった。
(左の写真)『ピクニック』
ウィリアム・ホールデン
と
・ブロードウェイで主役を務めた『メイム叔母さん』がロングラン・ヒット
(1956〜1958年)
となり、その映画化作品
(1958年)
で も主役を務めた。
映画も大ヒットし、アカデミー賞主演女優賞にノミネート(4回目)。ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞
(ミュージカル・コメディ部門)
を受賞(3回目)。
(右の写真)『メイム叔母さん』
・和服姿も披露したコメディ『
A Majority of One
』
(1961年)
でゴールデン・グローブ賞の主演女優賞
(ミュージカル・コメディ部門)
を受賞(4回目)。
(左の写真)『
A Majority of One
』
アレック・ギネス
と
・ストリッパーの女王ジプシー・ローズ・リーの母親を演じた『ジプシー』
(1962年)
でゴールデン・グローブ賞の主演女優賞
(ミュージカル・コメディ部門)
を受賞(5回目)。
(右の写真)『ジプシー』
ナタリー・ウッド
(左)と
・女優のアイダ・ルピノが監督したコメディ『青春がいっぱい』
(1966年)
にはジプシー・ローズ・リーがゲスト出演した。同作は好評で、続編 『青春ダイナマイト』
(1968年)
も製作された。
*
アイダ・ルピノ …
ハンフリー・ボガート
主演『ハイ・シェラ』(1941年)等に出演。女性監督の先駆けとしても活躍した。
(左の写真)『青春がいっぱい』ジプシー・ローズ・リー(左)と
・『危険な国から愛を込めて』
(1970年)
が 最後の劇場用映画となった。
・1973年、アカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞を受賞。
長年の慈善活動に対しての賞であったが、主演女優賞に4度もノミネートされながら、何れも受賞を逃したことに対する残念賞的な意味合いもあったのかもし れない。
(右の写真)オスカー像を手にするロザリンド・ラッセル
アカデミー賞の授賞式。プレゼンターは
フランク・シナトラ
・
1976年
、
69歳
で他界。
・晩年は慢性関節リウマチを患い、その治療の研究に多大な貢献をした。彼女の死後、カリフォルニア大学サンフランシスコ校に設立された研究所は彼女の 名前を冠している。
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