20世紀・シネマ・パラダイス
ジョーン・クロフォード
Joan Crawford
1904-1977 (アメリカ)
◆
代表作
グランド・ホテル
Grand Hotel
(1932年/アメリカ)
雨
Rain
(1932年/アメリカ)
ダンシング・レディ
Dancing Lady
(1933年/アメリカ)
ミルドレッド・ピアース
Mildred Pierce
(1945年/アメリカ)
大砂塵
Johnny Guitar
(1954年/アメリカ)
何がジェーンに起ったか?
What Ever Happened to
Baby Jane ?
(1962年/アメリカ)
◆
強烈なエピソードが多いのも大女優ならではか?
・
1904年
、テキサス州生まれ。本名は
Lucille Fay LeSueur
。彼女が生まれる前に父親は家を出ており、母親とその再婚相手である義父に育てられた。
・大学を数ヶ月で中退し、巡業劇団に入団。子供の頃から憧れていたダンサーとなり、1924年にはブロードウェイの舞台にも立った。
・1925年、MGM社と契約。『夜の女』 で、主演の
ノーマ・シアラー
のボディ・ダブル (替玉)を務めた後、『美人帝国』 でデビュー。この時は本名で出演したが、雑誌で芸名を公募し、ジョーン・クロフォードに決まった。
本人は、「ザリガニ (
Crawfish
) 」 みたいだとして嫌っていたとか。
(右の写真) 『古着屋クーガン』 (1925年)。
ジャッキー・クーガン
と
・ハリウッド周辺のホテルでダンスコンテストに出場するなどして名を売り込み、
ジョン・ギルバート
、ロン・チェイニー、ラモン・ノヴァロといった人気スターの相手役を務めるようになった。
(左の写真) 『四つの壁』 (1928年) ジョン・ギルバートと
・『踊る娘達』
(1928年)
がヒット。当時の流行の最先端をゆく自由奔放な新しい女性像、いわゆる 「
フラッパー
Flapper
」 を代表する女優の1人として、特に同性からの絶大な支持を得るようになった。
(右の写真) 『踊る娘達』 ドロシー・セバスチャン(右) と
・1929年、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアと結婚。
父親は 「ハリウッドのキング」
ダグラス・フェアバンクス
。
義母は 「アメリカの恋人」
メアリー・ピックフォード
。
ハリウッドきっての名門一家の一員となった。
(左の写真) ダグラス・フェアバンクス・ジュニアと
・トーキーの時代になると、フラッパーから、より洗練された女性へのイメージ・チェンジに成功し、MGM社の看板女優の1人になった。
・『蜃気楼の女』
(1931年/監督:
クラレンス・ブラウン
)
で共演した
クラーク・ゲーブル
とは不倫の関係になったが、ゲーブルが
ルイス・B・メイヤー
に諫められ、2人の関係は解消したと言われている。
ゲーブルとは 『
Strange Cargo
』
(1940年)
まで、計8本で共演した。
(右の写真) 『蜃気楼の女』 クラーク・ゲーブルと
・MGM社のオールスター・キャスト作品
『グランド・ホテル』
(1932年)
に出演した際には、共演の
グレタ・ガルボ
か ら格下扱いをされて?クロフォードが激怒したという。そのためかどうか、映画の中では2人の共演シーンは一切ない。
(左の写真) 『グランド・ホテル』
ウォーレス・ビアリー
と
・サミュエル・ゴールドウィン社に貸し出され、『雨』
(1932年/監督:
ルイス・マイルストーン
)
に出演。
良い役が欲しいクロフォードが、
サミュエル・ゴールドウィン
に泣きついて役を得たとも言われている。
(右の写真) 『雨』
ウォルター・ヒューストン
と
・1932年の ドル箱 (マネー・メイキング) スター・トップ10 では、ノーマ・シアラー (6位)、グレタ・ガルボ (5位) を抑えて堂々の第3位にランクイン。
『今日限りの命』 (1933年/監督:
ハワード・ホークス
)
ゲーリー・クーパー
と
『ダンシング・レディ』 (1933年)
クラーク・ゲーブル(左)、フランチョット・トーン(右)と
・1933年、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアと離婚。
『今日限りの命』、『ダンシング・レディ』 で共演したフランチョット・トーンと恋に落ち、1935年に再婚。
(左の写真) フランチョット・トーンと
『豪華一代娘』 (1936年/監督:クラレンス・ブラウン)
ロバート・テイラー
と
『ザ・ウィメン』 (1939年/監督:
ジョージ・キューカー
)
ノーマ・シアラー(中央)、
ロザリンド・ラッセル
(右)と
・1930年代後半になると、かつての人気は凋落し、私生活でもフランチョット・トーンと39年に離婚。
1942年、俳優のフィリップ・テリーと3度目の結婚をしたが、この結婚も長くは続かず、46年に離婚した。
(右の写真) フィリップ・テリーと
・1942年、飛行機事故で亡くなった
キャロル・ロンバード
に代わり、コロンビア社の 『
They All Kissed the Bride
』 に出演。
出演料の全額を赤十字社に寄付した。
(左の写真) 『
They All Kissed the Bride
』
メルヴィン・ダグラス
と
・1943年、18年間在籍していたMGM社を去り、ワーナー・ブラザーズ社と契約。同社での初主演作 『ミルドレッド・ピアース』
(1945年/監督:
マイケル・カーティス
)
で初めてアカデミー賞にノミネートされ、主演女優賞を受賞した。
(右の写真) 『ミルドレッド・ピアース』 アン・ブライス(右)と
クロフォードは高熱を理由に授賞式を欠席。代理でオスカー像を受け取ったマイケル・カーティス監督が、自宅のベッドにいる彼女にオスカー像を届けたが、大勢のマスコミが詰めかけており、これは彼女の演出、演技だとの陰口も多かったという。
・オスカー受賞により人気も回復し、『失われた心』
(1947年)
で再びオスカー候補となった。
その後、ワーナー・ブラザーズ社との契約を自ら解除し、RKO社で自ら製作した 『突然の恐怖』
(1952年)
に出演。同作で3度目のアカデミー賞主演女優賞候補となった。
(左の写真) 『突然の恐怖』
・西部劇 『大砂塵』
(1954年/監督:
ニコラスレイ
)
の撮影時には、共演女優のマーセデス・マッケンブリッジに嫉妬した上に、脚本の書き換えを要求して撮影をボイコット。その結果、女性同士の決闘というラストに変更され、異色の西部劇として評判を呼ぶことになった。
(右の写真) 『大砂塵』
・1955年、ペプシ・コーラのペプシコ社社長アルフレッド・スティール
(後の会長兼最高経営責任者)
と4度目の結婚。
彼が亡くなった
(59年)
後も、クロフォードは73年までペプシコ社の役員を務めた。
(左の写真) アルフレッド・スティールと
ペプシ・コーラを飲むクロフォード
!
若い頃、コカ・コーラの宣伝に出ていた
・『何がジェーンに起ったか?』
(1962年)
が大ヒットし、再び脚光を浴びた。
共演は
ベティ・デイビス
。MGM社とワーナー・ブラザーズ社のかつての看板女優同士の共演 (激突?) は大評判となった。
(右の写真) 『何がジェーンに起ったか?』
映画はおどろおどろしいスリラーの傑作だが、2人の大女優の関係はある意味映画以上に凄まじいものになった。
監督のロバート・アルドリッチ曰く、「
2人が心から嫌い合っていたことは間違いない。しかし、2人とも完璧な立ち居振る舞いを見せた
」。
(左の写真) ベティ・デイビスと
アルドリッチ監督の 『ふるえて眠れ』
(1964年)
でベティ・デイビスとの再共演が実現しかけたが、ジョーン・クロフォードが病気を理由に降板したともベティ・デイビスが降板させたとも言われている。
2人は公然と悪口を言い合い、生涯 相手を嫌っていた。
・SFホラー 『地底の原始人・キングゴリラ』
(1970年)
が最後の劇場用映画となった。
(右の写真) 撮影の合間、キングゴリラとペプシ・コーラを飲むクロフォード (笑)
・1970年、ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞を受賞。
(左の写真) ゴールデン・グローブ賞授賞式。プレゼンターの
ジョン・ウェイン
と
・1974年、クリスチャン・サイエンスに帰依したことを公言。
・
1977年
、
73歳
で他界。
・1978年、長女が 「親愛なるマミー ジョーン・クロフォードの虚像と実像」
を出版。
クロフォードには4人の養子がいたが、長女と長男を虐待していたという衝撃的な内容であった。
長女と長男は遺産相続権を剥奪されており、年少の2人が遺産を相続している。
年少の2人や最初の夫ダグラス・フェアバンクス・ジュニアらは、本の内容はデタラメであると非難したが、虐待現場を目撃したとい う証言者もおり、クロフォードの秘書も本の内容は真実であると認めている。
『愛と憎しみの伝説』
(1981年)
というタイトルで映画化もされ、クロフォードそっくりなメイクをしたフェイ・ダナウェイが、ハンガーで長女を殴りつけるなどショッキングなシーンが描かれている。
・
1999年
、AFI
(アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」 で、女優部門の第10位に選出。
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