20世紀・シネマ・パラダイス
伝説の映画製作者たち
1930〜1940年代のハリウッドの映画スタジオ
ビッグ5 … パラマウント、MGM、20世紀FOX、ワーナー・ブラザース、RKO
リトル3 … ユニヴァーサル、コロンビア、ユナイテッド・アーチスツ
更に小規模なリパブリックや、独立系の製作会社があった。
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MGM社
1924年、Metro Pictures、Goldwyn Pictures、Louis B. Mayer Pictures の3社が合併して成立。
夜空の
星の数よりも多くのスターを抱えていると謳われ、黄金時代のハリウッドに君臨した。 |
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| ルイス・B・メイヤー (1884-1957年)
・ミンスク(当時はロシア帝国領)で生まれ、幼い頃にカナダに移住した。家庭が貧しく、12歳で学校を辞め、父親の鉄屑回収業を手伝うようになった。
・1904年、単身でボストン(米マサチューセッツ州)へ引っ越し、鉄屑回収業を始めた。
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・1907年、廃屋となっていた寄席小屋を買い取り、映画館としてリニューアル・オープンして成功を収め、周辺の劇場を次々と買収していった。
・1914年、映画配給会社を設立。『スコウ・マン』(1914年/監督:セシル・B・デミル)、『國民の創生』(1915年/監督:D・W・グリフィス)等のニューイングランド(マサチューセッツ、コネチカット、ニューハンプシャー、バーモント、メイン、ロードアイランドの6州)での独占配給権を取得して財を築いた。 |
・1918年、ロスアンゼルスに移り、映画製作会社ルイス・B・メイヤー・ピクチャーズを設
立。1924年にメトロ社、ゴールドウィン社と合併しMGM社が成立すると、副社長で映画製作部門の最高責任者に就任。製作現場を若き天才プロデューサー、
アービング・G・タルバーグに統括させ、ハリウッドNO.1スタジオの地位を確固たるものにした。
(右の写真)ノーマ・シアラー、アービング・G・タルバーグ(中央)と |
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・1927年、アカデミー協会(映画芸術科学アカデミー)創設の際には中心的な役割を果たしたが、メイヤーの目的の1つは労働組合対策でもあった。
(左の写真)『肉体と悪魔』(1926年)製作時。グレタ・ガルボ、ラルス・ハンソン(右)と。グレタ・ガルボとは犬猿の仲だったらしい。
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・1937年には、全米で初めて年収が100万ドルに達し、以後9年間、全米トップの年収だったという。ちなみに、1939年に俳優でトップのゲーリー・クーパーの年収が約50万ドルだった。
(右の写真)クラーク・ゲーブル(左)、デビッド・O・セルズニック(後)と。セルズニックは、一時期(1930〜1948年)、メイヤーの娘婿だった。 |
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・権力者として剛腕を振るったことから良からぬ評判も多いが、MGM社と最長の24年間契約を継続したロバート・テイラーや、子役の頃から契約していたミッキー・ルーニー等は、メイヤーのことを父親のように慕っていたという。ルーニーはアカデミー賞名誉賞を受賞(1983年)した時、「ルイス・B・メイヤーにキスをしたい」と感謝のスピーチをした。(右の写真)左から、ハーバート・マーシャル、ロバート・テイラー、ジョーン・クロフォードと
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| アービング・G・タルバーグ (1899-1936年)
・ニューヨークのブルックリン生れ。先天性心疾患で、高校時代も大病を患い、大学進学を断念。アルバイトをしながら夜間学校に通い、速記タイプやスペイン語を習った。
・ユニヴァーサル社に創業者カール・レムリの秘書として採用され、その後、21歳の若さで製作部門の責任者に。「神童」(The Boy Wonder)と謳われた。
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・ユニヴァーサル社時代の逸話では、奇才エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督との対立が語り継がれている。
・1924年、ルイス・B・メイヤー・ピクチャーズ社のNo.2として引き抜かれ、同社が合併によりMGM社となると、製作部門の統括プロデューサーに就任。『ビッグ・パレード』(1925年/監督:キング・ヴィダー)、『肉体と悪魔』(1926年/監督:クラレンス・ブラウン)といった大ヒット作品を手掛けた。 |
・1927年、女優のノーマ・シアラーと結婚。彼女もタルバーグが手掛けた良質の作品に出演し、‟MGM社のファースト・レディー”と称される看板女優の1人となった。
(右の写真)結婚式時のタルバーグ(左から2番目)とノーマ・シアラー(右から2番目) |
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・アカデミー賞作品賞を受賞した『ブロードウェイ・メロディー』(1929年)、『グランド・ホテル』(1932年)、『戦艦バウンティ号の叛乱(南海征服)』(1935年)等、数多くのヒット作品を手掛けたが、1936年、37歳の若さで亡くなった。
(左の写真)マルクス兄弟と
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・第10回(1937年度)アカデミー賞より、彼の名を冠した「アービング・G・タルバーグ賞」が創設され、良質な作品を製作したプロデューサーに贈られることとなった。
(右の写真)左から、タルバーグ、ノーマ・シアラー、ルイス・B・メイヤー |
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・彼をモデルとした、作家F・スコット・フィッツジェラルドの未完の小説「ラスト・タイクーン」が、エリア・カザン監督によって映画化 (1976年)もされた。
(左の写真)ノーマ・シアラーと
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| 第23回(1950年度)まで、作品賞のオスカー像は製作会社の代表者に贈呈されていた。
その間にMGM社がオスカー像を獲得した作品は最多の5作品。
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第2回
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第5回
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『ブロードウェイ・メロディー』(1929年)
ベッシー・ラヴ、チャールズ・キング
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『グランド・ホテル』(1932年)
グレタ・ガルボ、ジョン・バリモア
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