20世紀・シネマ・パラダ
イス
◆ アカデミー賞作品賞を受賞した戦意高揚映画
1939年の夏のイギリス。
建築家の夫クレムとの間に3人の子宝に恵まれたミ
ニヴァー夫人。
ロンドンへショッピングに出かけた夫人は素敵な帽子を見つけ、少々値が張るが、我慢できずに購入した。 |
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住まいのあるベルハムの駅に着いた夫人は、駅長のバラードに呼び止められた。聞けば、彼が丹精込めて栽培したバラの花に「ミニヴァー夫人」
と名付けたいとの申し出だった。夫人は快く承諾した。 |
妻が出かけている間に夫のクレムは車を買い替えた。
その日の晩。夫も妻も高い買い物をしてしまったことを相手にどう切り出そうかと苦心していたが、いざ打ち明けてみると、‟お互い様”ということで一件落
着
した。
ミニヴァー家は、ある程度の贅沢ができる中産階級の家庭であり、家族仲良く平和に暮らしていた。 |
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オックスフォード大学で寮生活を送っている長男のヴィンが、夏休みで帰省してきた。久しぶりに親子でティー・タイムを過ごしているところへ、名家の娘キャロル・ベルドンが訪ねて来た。
駅長が自慢のバラを「ベルドン杯」に出品するとの噂を耳にして、出品を止めるように駅長を説得する役目をミニヴァー夫人に頼みに来たのだった。 |
花の品評会「ベルドン杯」のバラ部門で優勝することを誇りとしているベルドン夫人に気兼
ねして、過去30年、バラを出品する者は他にいなかったのだ。
キャロルの依頼は祖母を優勝させてあげたいとの気遣いからであったが、ヴィンがベルド
ン家の特権階級の意識を批判したことで、2人は口論を始めてしまった。 |
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その日の夜のダンス・パーティーで、ヴィンとキャロルは昼間の口論の事をお互いに詫
び、急接近していった。 |
町の教会で礼拝中、イギリスが参戦したことが発表され、灯火管制の生活が始まった。
ヴィンは、祖母と2人暮らしのキャロルを心配してベルドン家へ見回りにいったが、ベルドン夫人は「ミニヴァー夫人」
が出品されたこともあって、ヴィンの訪問を歓迎しなかった。
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空軍に入隊したヴィンが新兵訓練を終えて帰宅して来た。キャロルも一緒の夕食の席で、ヴィ
ンがプロポーズし、キャロルも受け入れた。しかし、喜びの時も束の間、ヴィンに軍から召集の電話が入り、1週間の予定だった休暇が切り上げられてしまっ
た。
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クレムはダンケルクの戦い(1940年5月〜6月)で
撤退した自国兵を救出するため、町の人々と一緒にボートでテム
ズ河を下っていった。クレムの不在中、ミニヴァー家にドイツ兵パイロットが侵入して来た。しかし、ドイツ兵は戦闘機が不時着した際に負傷しており、彼が
気絶した間に警察に通報
し、事なきを得
た。
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ヴィンとキャロルの結婚話を聞いたベルドン夫人がミニヴァー夫人を訪ねて来
た。キャロルはまだ若すぎると結婚に反対していたベルドン夫人だが、自身の身の上話 …
16歳の時に親の反対を押し切って結
婚し、数週間後に夫が戦死してしまったが、
一度も後悔していない … を語るうちに、若い2人の結婚を認めるように考えが変わっていった。
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ドイツ軍によるロンドン空爆が始まり、ミニヴァー家も防空壕へ避難する日々が続いた。
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スコットランドへ2週間のハネムーンへ出かけていたヴィンとキャロルが戻って来たが、迎え
入れるミニヴァー家は空爆により損害を受けていた。
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花の品評会
が開催された。バラ部門の優勝者はベルドン夫人だった。主催者として審査結果を発表するベルドン夫人
は、表彰台で改めて駅長の「ミニヴァー夫人」を観た。審査員たちがベルトン夫人に気兼ねしたことは明らかだった。
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ベルドン夫人は、バラ部門の優勝者は駅長のバラードで自分が準優勝だと発表した。ベルド
ン夫人にも優勝者のバラードに勝るとも劣らない歓声と拍手が送られた。
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品評会場にドイツ軍空襲の報がもたらされ、ヴィンは空軍の飛行場へ直行した。ミニ
ヴァー夫人とキャロルが乗った車が自宅へ戻る途中で戦闘機に襲われ、キャロルが撃たれてしまった…。
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『ミニヴァー夫人』 予告編 |
◆ 主な出演者など
・本作製作中にアメリカが第2次世界大戦に参戦したことにより、脚本がより親イギリス、反
ドイツの内容に書き換えられ、ミニヴァー夫人がドイツ兵の顔を平手打ちするシーンなどが追加撮影された。
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・アメリカでその年最大のヒット作となり、イギリスでも大ヒットした。
イギリスのチャーチル首相は、「駆逐艦の一艦隊よりも勝利に貢献した」
と本作を称賛した。 |
・ラストの牧師の台詞、「戦争は民間人も巻き込む…。自由のために闘おう…」
は、TIME誌等に掲載され、映画だけでなく、活字としても戦意高揚に一役買った。
この台詞は、ワイラー監督と牧師役のヘンリー・ウィルコクソンが自ら脚本の書き換えに
携わった。
(右の写真)牧師役のヘンリー・ウィルコクソン |
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・アカデミー賞では11部門でノミネート。特に、演技賞では4部門全てで候補者を出した史
上
初の作品となった。
*主演男優賞候補:ウォルター・ピジョン
*主演女優賞候補:グリア・ガースン
*助演男優賞候補:ヘンリー・トラヴァース
*助演女優賞候補:テレサ・ライト、メイ・ウィッティ |
・自身5度目のノミネートで監督賞を初受賞したウィリアム・ワイラーは、本作撮影後にアメ
リカ
陸
軍航空隊に入隊し、戦時ドキュメンタリー映画の撮影現場で受賞を知らされたが、本作
での戦争の描き方が甘いものであったとのコメントを残している。
(右の写真)『ミニヴァー夫人』撮影時。ワイラー監督とグリア・ガースン |
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・タイトル・ロールの第1候補はノーマ・シアラーだったが、3人の子持ち役に難色を示して辞退。代りに抜擢されたグリ
ア・ガースンがオスカーを獲得し、一躍MGM社の看板女優に躍り出た。
アカデミー賞授
賞式では史上最長のスピーチをして、以後、受賞のスピーチに時間制限が設けられるきっかけを作ってしまったことも語り草に。(左の写真)アカデミー賞授賞式にて。グリア・ガースンと主演男優賞のジェー
ムズ・キャグニー |
・新鋭のテレサ・ライトとベテランのメイ・ウィッティがダブル・ノミネートされた助演女優
賞は、テレサ・ライトに軍配が上がった。
テレサ・ライトはこの年、『打撃王』での演技で主演女優賞
にもノミネートされていた。
(右の写真)テレサ・ライト(左)とメイ・ウィッティ
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・アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞、助演女優賞、脚色賞、撮影賞(白黒部門)の6部門で受賞し
た他、製作者のシドニー・フランクリンにアービング・G・タルバーグ賞が贈呈された。
(左の写真)アカデミー賞授賞式にて。左から、ヴァ
ン・ヘフリン、グリア・ガースン、テレサ・ライト、ジェームズ・キャグニー |
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シドニー・フランクリン … 『哀愁』(1940年)、『心の旅路』
(1942年)、『キュリー夫人』(1943年)、『子鹿物語』(1946年)等を製作 |
・本作公開の翌年、グリア・ガースンと彼女の息子を演じた12歳年下のリチャード・ネイが
結婚
してファンを驚かせたが、1947年に離婚した。
リチャード・ネイは本作がデビュー作で、その後も役者として活動したが、1960年代に投資カウンセラーに転じた。
(右の写真)『ミニヴァー夫人』撮影時。グリア・ガースンとリチャード・ネイ |
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・8年後に続編の『The Miniver Story』(1950年)
が製作されたが、大きな成功を収めることは出来なかった。
(左の写真)『The Miniver Story』 グリア・ガースンとウォルター・ピジョン |
・1960年にTVドラマとしてリメイクされ、モーリン・オハラがミニヴァー夫人を演じた。
(右の写真)TVドラマ「ミニヴァー夫人」 モーリン・オハラとレオ・ゲン
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◆ ピック・
アップ … メイ・ウィッティ
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May Whitty 1865-1948
(イギリス)
・1865年、リバプール生れ。16歳の時に舞台女優としてデビューし、以後、ロンドン、ブロードウェイ(ニューヨーク)の舞台で活躍。1918年、女
優では初めて大英帝国勲章(DBE)を授かり、‟デイム”の称号を得た。
・映画の仕事はサイレント期に3本のイギリス映画に出演しただけだったが、72歳の時に『夜は必ず来る』(1937
年)でハリウッド映画デビューした。 |
・『夜は必ず来る』(1937年)と『ミ
ニヴァー夫人』(1942年)で2度アカデミー賞助演女優賞候補になった。 |
・1948年、82歳で他界。晩年はアメリカに住んでいた。
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