20世紀・シネマ・パラダ イス
ジェーム ズ・キャグニー
James Cagney
1899-1986 (アメリカ)
◆
代表作
民衆の敵
The Public Enemy
(1931年/アメリカ)
Gメン
'G' Men
(1935年/アメリカ)
汚れた顔の天使
Angels with Dirty Faces
(1938年/アメリカ)
彼奴は顔役だ!
The Roaring Twenties
(1939年/アメリカ)
ヤンキー・ドゥードゥル・ダ ンディ
Yankee Doodle Dandy
(1942年/アメリカ)
白熱
White Heat
(1949年/アメリカ)
◆
ハリウッドの伝説のギャング・スター
・
1899年、
ニューヨーク生れ。10代の頃は野球やボクシングをしてお り、ボクシングはプロになることを勧められた程の腕前だった。1918年、コロンビア大学在学中に父親が亡くなり、家計を助けるために大学を中退。様々 な仕事を経て、ショー・ビジネスの世界に入った。
・舞台デビューは「
Every Sailor
」
(1919年)
というコメディ・ミュージカルで、女装をしてのコーラス・ガールの役だった。
翌1920年、ミュージカル「
Pitter Patter
」 でブロードウェイ・デビュー。以後、ブロードウェイや各地のボードビルで活躍。一時期、
ケーリー・ グラント
とコンビを組んだこともあった。
(右の写真)「
Every Sailor
」
後 列一番左が女装したキャグニー
・出演していたブロードウェイの舞台「
Penny Arcade
」 を映画化した『
Sinner's Holiday
』
(1930年)
で銀幕デビュー。ワーナー・ブラザーズ社と7年間の契約を締結した。
・ギャングのボスを演じた『民衆の敵』
(1931年/監督:
ウィリアム・A・ウェルマン
)
が大ヒットし、スターの仲間入り。
朝食の席で、情婦の顔に半切りのグレープ・フルーツを押しつけるシーンが大評判に。当初はオムレツだったが、バターがべとつくためグレープ・フルーツに なったとか。
(左の写真)『民衆の敵』 メイ・クラークと
*
メイ・クラーク …
『フランケンシュタイン』
(1931年)に出演
・1930年代のギャング映画ブームにおいて、最大のギャング・スターとなった。
『夜の大統領』
(1931年)
エドワード・G・ロビンソン
(中央) と
『タクシー』(1932年)
ロレッタ・ヤング
と
『拳闘のキャグネイ』(1932年)
『偽物紳士』(1934年)
ベティ・デイビス
と
『Gメン』(1935年)
『真夏の夜の夢』(1935年)
ジョー・E・ブラウン
(右)と
・1935年、ワーナー・ブラザーズ社と待遇面で対立し、独立。弟と映画製作会社を設立し たが失敗した。
ワーナー社に復帰して出演した『汚れた顔の天使』
(1938年/監督:
マイケル・カーティス
)
が大ヒット。アカデミー賞主演男優賞にノミネートもされ、オスカーは逃したが、ニューヨーク映画批評家協会賞の主演男優賞を受賞した。
(左の写真)『汚れた顔の天使』 アン・シェリダンと
『オクラホマ・キッド』
(1939年)
ハンフリー・ボガート
(左)と
『彼奴は顔役だ!』(1939年/監督:
ラオール・ウォルシュ
)
プリシラ・レインと
・1939年には、
ゲーリー・ クーパー
に次ぐ高額所得俳優となった。ドル箱
(マネー・メイキング)
スター・トップテンには、1935年に第10位でランクインし、1939年に第9位で再びランクイン。以後、1940年(第6位)、1941年(第9位)、1942年(第 6位)、1943年(第8位) と、5年連続でトップテン入りした。
(右の写真)『いちごブロンド』(1941年/監督:ラオール・ウォルシュ)
オリヴィア・デ・ハヴィランド
(左)、
リタ・ヘイワース
と
・「ブロードウェイの父」と呼ばれた俳優・作曲家兼興行師ジョージ・M・コーハンの伝記映画『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』
(1942年/監督:マイケル・カーティス)
に出演。自ら会社を説得して得た役で、見事な歌とダンスも披露。映画は大ヒットし、キャグニーはアカデミー賞主演男優賞を受賞した。
(右の写真)『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』
ジョーン・レスリー
と
・アカデミー賞授賞式では、「
この業界で優れているかどうかは、仲間たちが決めるも のだ、と思っていた。とても嬉しい
」とスピーチ。
キャグニー自身、この作品が1番のお気に入りだったという。
(右の写真)プレゼンターのゲーリー・クーパー(右)と
・同作で妹を演じたのは、実の妹ジ−ン・キャグニー。4作で共演をしたが、この作品が初 共演だった。また、映画製作者だった弟のウィリアムも、同作に製作補として名を連ねた。
(左の写真)『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』
妹のジーン・キャグニーと
・『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』 出演後、再び独立したが、またも成功を収めることは出来なかった。第2次世界大戦中は兵士慰問活動にも力を入れ、1942年から2年間、全米映画俳優組合の代表を務めた。
・ワーナー社に再復帰して、久々のギャング映画
『白熱』
(1949年/監督:ラオール・ウォルシュ)
で、自ら考案したというマザコンの性格異常者を快演。
ラストの「
やったぜママ!世界一だ!- Made it, Ma ! Top of the World !
」は、AFI
(アメリカ映画協会)
が2005年に選定した 「アメリカ映画名セリフ・ベスト100」の第18位にランクインした。
(右の写真)『白熱』 のラスト・シーン
・実在の歌手ルース・エッティングの伝記映画『情欲の悪魔』
(1955年)
で、彼女を支えたギャングのボスを演じて、3度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。
(左の写真)『情欲の悪魔』
ドリス・デイ
と
・『ミスタア・ロバーツ』
(1955年)
、サイレ ント期の怪奇俳優ロン・チェイニーの伝記映画『千の顔を持つ男』
(1957年)
等に出演。『地獄への近道』
(1957年)
で は、最初で最後の監督業に挑戦した。
『ミスタア・ロバーツ』
ヘンリー・フォンダ
(右)と
『千の顔を持つ男』 ジェーン・グリアと
・『ワン、ツー、スリー』
(1961年/監督:
ビリー・ワイルダー
)
への出演を最後に引退を宣言した。
(右の写真)『ワン、ツー、スリー』
・引退後、度重なる出演オファーがあったが、『アリゾナの勇者』
(1967年)
でナレーターを務めた以外は全て断っている。その中には、
『マイ・フェア・レディ』
(1964年)
の主人公の父親役、『ゴッド・ファーザーPRAT U』
(1974年)
、『ハリーとトント』
(1974年)
のハリー役などもあった。
・1974年、AFI
(アメリカ映画 協会)
の生涯功労賞を受賞。
ジョン・フォード
監督に次いで2人目、俳優では最初の受賞者だった。授賞式のホストは
フランク・シナトラ
が務めた。
(左の写真)フランク・シナトラ(右)と
・『ラグタイム』
(1981年/監督:ミロス・フォアマン)
で、20年ぶりに銀幕に復帰。数年前に軽度の脳卒中を患っていたが、医師にも勧められての出演だった。
『汚れた顔の天使』の神父役など、多くの作品で共演した親友のパット・オブライエンも出演。2人にとって最後の劇場用映画となった。
(右の写真)『ラグタイム』撮影時 パット・オブライエン (右)と
・TVドラマ「
Terrible Joe Moran
」
(1984年)
が遺作となった。キャグニーが辞退した『ハリーとトント』のハリー役でアカデミー賞主演男優賞を受賞したアート・カーニーとの共演だった。
(左の写真)「
Terrble Joe Moran
」アート・カーニー(後)と
・1984年、レーガン大統領より大統領自由勲章 を授けられた。
(右の写真) レーガン大統領夫妻と
・
1986年
、
86 歳
で他界。
ジェームズ・キャグニー トリビュート動画
・AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝説のスター・ベスト50」で、男優部門の第8位に選出。
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