20世紀・シネマ・パラダ イス

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     マイ・フェア・レディ
     My Fair Lady
     監督:ジョージ・キューカー
     (1964年/アメリカ)
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  アカデミー賞作品賞を受賞したオードリー・ヘップバーンのシンデレラ・ストーリー

 1912年3月のロンドン。粗野で下品な花売り娘イライザは、ひょんなことから、言語学者のヒギンズ教授の家に住み込んで、下町育ちの訛りを矯正され、レディーとしての行儀作法を教え込まれることになった。実は、ヒギンズ教授は友人のピカリング大佐と、イライザを6ヶ月でレディーすることが出来るか否か、賭けをしていたのだったが…。
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 『マイ・フェア・レディ』 予告編




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イライザ…。スリッパはどこだ


  主な出演者など

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 ・イライザ・ドゥーリトル役 … オードリー・ヘップバーン
 ・ヘンリー・ヒギンズ役 … レックス・ハリソン
 ・アルフレッド・ドゥーリトル役 … スタンリー・ホロウェイ
 ・ヒュー・ピカリング役 … ウィルフリッド・ハイド=ホワイト
 ・ヒギンズの母親役 … グラディス・クーパー
 ・フレディ・アインスフド=ヒル役 … ジェレミー・ブレット

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 <ギリシャ神話>
 キプロス島の王ピグマリオンが、自ら彫刻した理想の女性の彫像に恋い焦がれてしまい、その様子を憐れんだ女神が彫像を人間に変え、ピグマリオンはその女性と結婚する。

 <ピグマリオン>
 イギリス近代演劇の巨人ジョージ・バーナード・ショー (アイルランド人、1925年ノーベル文学賞受賞) が、ギリシャ神話を元
に執筆した戯曲 「ピグマリオン」 は、ウィーン(1913年)、ニューヨーク、ロンドン (1914年) で上演され、大成功を収めた。
 イギリスの階級社会を揶揄した風刺劇であり、上流階級の伝統と格式を重んじる風変りなヒギンズ教授と労働者階級の娘イライザは、最後は別れてしまうストーリーだった。
 (右の写真) ジョージ・バーナード・ショー(左) と レスリー・ハワード
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Pygmalion
 ・1938年、レスリー・ハワードの監督(共同)・主演で映画化された。米アカデミー賞の作品、主演男優、主演女優(ウェンディ・ヒラー)、脚色の4部門でノミネートされ、脚色賞を受賞。脚色家の1人としても名を連ねていたバーナード・ショーは、ヒギンズ教授とイライザが結ばれることは、完成した映画を観て初めて知ったという。
 (左の写真) 映画 『ピグマリオン』 レスリー・ハワードとウェンディ・ヒラー

 <ピグマリオン 幻のミュージカル> 
 映画 『ピグマリオン』 の製作者ガブリエル・パスカルは、バーナード・ショーの戯曲の映画化作品 『バーバラ少佐』 
(1941年/主演:ウェンディ・ヒラー)、『シーザーとクレオパトラ』 (1945年/主演:ヴィヴィアン・リー の製作者・監督でもあり、『マイ・フェア・レディ』 の中の楽曲 「スペインの雨」 の歌詞 (一部) の作者でもある。パスカルは、「ピグマリオン」 のミュージカル化を希望していたが、バーナード・ショーが反対して実現できなかった。 (右の写真) ガブリエル・パスカル(後) と ジョージ・バーナード・ショー
 
* ジョージ・バーナード・ショーは1950年、ガブリエル・パスカルは1954年に亡くなった。
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 <マイ・フェア・レディ>
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 ・ガブリエル・パスカルの死後、「ピグマリオン」 の諸権利はイギリスの銀行が管理しており、MGM社も触手を伸ばしていたが、脚本・作詞家のアラン・ジェイ・ラーナーと作曲家のフレデリック・ロウが銀行 から権利を得て、「ピグマリオン」 のミュージカル劇 「マイ・フェア・レディ」 を生み出した。
 (左の写真) フレデリック・ロウ(左) と アラン・ジェイ・ラーナー。ジーン・ケリー主演の 『ブリガドーン』 (1954年)、レスリー・キャロン主演の 『恋の手ほどき』 (1958年) 等の作者コンビ。 

 <ブロードウェイ・ミュージカル 「マイ・フェア・レディ」 >
 ミュージカル劇 「マイ・フェア・レディ」 は、ブロードウェイで6年半 (1956年3月〜1962年9月)に及ぶ記録的な大ヒット、ロングラン公演となった。
 オリジナル・キャストは、イライザ役がジュリー・アンドリュース (1958年2月まで)、ヒギンズ教授役がレックス・ハリソン (1957年12月まで)
  (右の写真) 舞台の主役 ジュリー・アンドリュースとレックス・ハリソン
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My_Fair_Lady_Play  1957年のトニー賞で、ミュージカル作品賞、ミュージカル主演男優賞 (レックス・ハリソン)等、6部門で受賞した。
 仮タイトルは 「レディ・ライザ」 だったが、レックス・ハリソンが反対し、イギリスに古くから伝わる童謡 「ロンドン橋落ちた」 の歌詞にある 「マイ・フェア・レディ」 が採用された。
 (左の写真) 舞台 「マイ・フェア・レディ」 ジュリー・アンドリュースとレックス・ハリソン

 ・「マイ・フェア・レディ」 の諸権利は、CBS がアラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ロウから買い取っていた。CBSは、舞台 「マイ・フェア・レディ」 に資金提供する代わりに、子会社 (当時) のコロムビア・レコードが同作のレコードを販売して収益を得ていた。

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 ・1962年2月、ワーナー・ブラザース社が、激しい争奪戦の末、史上最高額(当時)の550万ドルで映画化権を取得。ちなみに、賞レースにおいて本作のライバルとなった 『メリー・ポピンズ』 の製作費が600万ドル。 
 社長のジャック・L・ワーナーが製作者として陣頭指揮を執り、同社史上最高額 (当時) となる1,700万ドルの製作費が投入された。
 (右の写真) 左から、レックス・ハリソン、ジャック・L・ワーナー、オードリー・ヘップバーン
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 * 1978年、コロンビア社が、『アニー』 (1982年/監督:ジョン・ヒューストン) の映画化権として950万ドルを支払い、本作の記録を抜いた。

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 ・オードリー・ヘップバーンは本作で、『クレオパトラ』 (1963年)エリザベス・テイラーに続いて、100万ドルの出演料を得た。
 イライザ役の第1候補はジュリー・アンドリュースだったが、当時の彼女はブロードウェイでは名声を確立していたものの、銀幕デビュー前で、国際的には無 名だった。その為、ジャック・L・ワーナーがスクリーン・テストを要求したが、彼女が拒否したため、起用が見送られた。

 ・ヒギンズ教授役は、第1候補だったケーリー・グラントが辞退。次に候補となったピーター・オトゥールは、『アラビアのロレンス』 (1962年) の公開前で知名度が低かったにも係わらず、40万ドル+歩合の主演料を要求したためNGとなった。オトゥールは後年、ブロードウェイ劇 「ピグマリオン」 (1987年) でヒギンズ教授を演じている。
 レックス・ハリソンの出演料は20万ドルだった。
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 ・1963年8月に始まった撮影は、同年12月に終了した。オードリー・ヘップバーンは、 歌声の一部が吹き替えられることは承知していたが、撮影開始の数ヵ月前から発生訓練を受ける等、懸命に努力して撮影に臨んでいた。最終的に、9割近くの歌 声が吹き替えられることになったと知った時は、相当なショックを受けたという。 (左の写真) カメラマンのハリー・ストラドリングとオードリー・ヘップバーン。ハリー・ストラドリングは 『ピグマリオン』 (1938年) も撮影していた。

 ・アカデミー賞では12部門でノミネートされ、作品、監督、主演男優、撮影(カラー)、美術監督・装置(カラー)、音響、編曲、衣装デザイン(カラー)の8部門で受賞。オードリー・ヘップバーンが主演女優賞にノミネートすらされずに物議を醸した。歌声が吹き替えだからとも言われたが、『王様と私』 (1956年) デボラ・カーは歌声が吹き替えながらもノミネートされていた。オードリーの落選には、ジャック・L・ワーナーもジョージ・キューカー監督も不満を表明した。 My_Fair_Lady-10
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 主演女優賞は、『メリー・ポピンズ』 で銀幕デビューしたジュリー・アンドリュースが受賞。何とも皮肉な結果となった。
 本作は、オードリー・ヘップバーンのキャリアで最大のヒット作となり、代表作の1つともなったが、つらい思いも味わった作品となった。
 (左の写真) アカデミー賞授賞式にて。
 オードリー・ヘップバーン(左)とジュリー・アンドリュース


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 レックス・ハリソン、アカデミー賞主演男優賞受賞時。プレゼンターはオードリー・ヘップバーン



 ・ワーナー・ブラザース社にとって、『カサブランカ』 (1943年) 以来のアカデミー賞作品賞受賞となった。
 1956年、3人の兄たちを出し抜いて社長となったジャック・L・ワーナーにとって、悲願のオスカーであり、最大のレガシーにもなったと言える。
 (右の写真) アカデミー賞授賞式にて。左から、ジャック・L・ワーナー、
  オードリー・ヘップバーン、レックス・ハリソン、ジョージ・キューカー監督

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< 劇中曲 「踊り明かそう」 >

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