20世紀・シネマ・パラダ イス

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Peter_O'Toole

ピーター・オトゥール

Peter O'Toole

 
1932-2013 (アイルランド )

 

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     代表作

Lawrence_of_Arabia  アラビアのロレンス
 Lawrence of Arabia
 (1962年/イギリス)
Becket  ベケット
 
Becket
 (1964年/イギリス)
How_to_Steal_a_Million  おしゃれ泥棒
 How to Steal a Million
  (1966年/アメリカ)
The_Lion_in_Winter-3  冬のライオン
 The Lion in Winter
 (1968年/イギリス)
Goodbye,_Mr._Chips  チップス先生さようなら
 Goodbye, Mr. Chips
 (1969年/アメリカ)
The_Last_Emperor-3  ラストエンペラー
 The Last Emperor
 (1987年/伊・中・英)

     ◆  アカデミー賞の最も偉大な敗者

 ・1932年、アイルランドのゴールウェイ州生れ。但し、役場の記録では、イングランドのウエスト・ヨークシャー州リーズ生れとなっているとの説も。父親はアイルランド人、母親はスコットランド人だった。
 リーズのカトリック系の学校で教育を受け、修道女に左利きを右利きに矯正された。

 ・学校卒業後、ヨークシャー・イヴニング・ポスト社に入社。写真部で社業に励む傍ら、地元のアマチュア劇団に入団し、リーズのヴィック劇場で初めて舞台に出演 (1949年)した。
 当時のイギリスは徴兵制を敷いていたため、海軍で兵役に就き (1950〜52年)、除隊後、奨学金を得て、ロンドンの王立演劇学校で演技を学んだ (1952〜54年)
 (右の写真) イギリス海軍時代のピーター・オトゥール
Peter_O'Toole/Peter_O'Toole-4

The_Long_and_the_Short_and_the_Tall_1959
 ・プロの役者としてTVドラマでデビュー (1955年)後、ブリストルのオールド・ヴィック劇場を拠点に活動していた(1956〜58年)
 ロンドンに進出して、日本で言うところのマレー作戦を題材とした舞台劇 「The Long and the Short and the Tall(1959年) で主役を務めたことが転機となった。
 (左の写真) 舞台 「The Long and the Short and the Tall 」 でのオトゥール (中央右)

 ・1959年、女優のシアン・フィリップスと結婚。
 娘を2人授かり、『ベケット』 (1964年)、『チップス先生さようなら』 (1969年)、『マーフィの戦い』 (1971年) 等で共演もしたが、1979年に離婚した。
 (右の写真) 妻のシアン・フィリップスと
Sian_Phillips

 ・ピーター・フィンチ主演の 『海賊船』 (1960年) で銀幕デビュー。舞台劇 「The Long and the Short and the Tall 」 を
観た映画製作者のジュール・バックが、自身の作品 『The Day They Robbed the Bank of England(1960年) にオトゥールを起用。その作品をデヴィッド・リーン監督が観たことが、『アラビアのロレンス』 への出演に繋がった。
Kidnapped The_Savage_Innocents The_Day_They_Robbed_the_Bank_of_England
『海賊船』 (1960年)
『バレン』 (1960年/監督:ニコラス・レイ
谷 洋子、アンソニー・クイン(右)と
The Day They Robbed 〜 』 (1960年)
 マイルズ・メイルソン(左)と

Lawrence_of_Arabia-2  ・イギリスの演劇界では期待の新鋭として注目されていたものの、一般的にはまだ無名だった。しかし、超大作 『アラビアのロレンス』 (1962年/監督:デヴィッド・リーン) の主役に抜擢され、砂漠の英雄T・E・ロレンスを見事に演じきった。
 英アカデミー賞の主演男優賞を受賞。米アカデミー賞は、『アラバマ物語』グレゴリー・ペックに敗れた。
 (左の写真) 『アラビアのロレンス』

 ・上記の映画製作者ジュール・バックと映画製作会社Keep Films社を設立。
  * ジュール・バック (アメリカ人) … ハリウッドでカメラマン、製作者をしていたが、‟赤狩り” に嫌気がさしてロンドンへ。
  長年、ピーター・オトゥールの活動をサポートした。

 ・Keep Films社とハル・B・ウォリスがタイアップして 『ベケット』 (1964年) を製作。オトゥールはイングランド王ヘンリー2世に扮し、大司教トマス・ベケットに扮したリチャード・バートンと共にアカデミー賞の主演男優賞候補 (2度目) となったが、『マイ・フェア・レディ』レックス・ハリソンに敗れた。
 ゴールデン・グローブ賞の主演男優賞 (ドラマ部門) を受賞。
 (右の写真) 『ベケット』 リチャード・バートン(左)と
Becket-2

O'Toole_&_Mifune
 ・幻の作品 … 日本に漂着 (1600年)し、徳川家康に仕えたイギリス人航海士ウィリアム・アダムス (日本名:三浦按針) を演じる企画があった。
 監督はジョン・ヒューストン、脚本は 『ローマの休日』ダルトン・トランボ、そして、三船敏郎が共演する企画だったという。
 (左の写真) 来日時。三船敏郎(左) と

Lord_Jim
What's_New,_Pussycat
『ロード・ジム』 (1965年)
『何かいいことないか子猫チャン』 (1965年)
ウディ・アレン(左)、ロミー・シュナイダーと


 ・ 上記のように、アイルランド生れではないとする説もあるが、本人はアイルランド生れであると主張し続け、そのことを誇りとしていた。
 アイルランドのナ ショナル・カラーである緑色の靴下を就寝時にも履き、緑色の靴下の上に別の色の靴下を履いたり、緑色の靴下をポケットに入れて撮影に臨んでいたという。
 (右の写真) 『おしゃれ泥棒』 (1966年) オードリー・ヘップバーン
How_to_Steal_a_Million-2

The_Bible The_Night_of_the_Generals
『天地創造』 (1966年/監督:ジョン・ヒューストン 『将軍たちの夜』 (1967年/監督:アナトール・リトバク

The_Lion_in_Winter-2  ・キャサリン・ヘップバーンと共演した 『冬のライオン』 (1968年) で再びヘンリー2世を演じ、3度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。
 『まごころを君に』 のクリフ・ロバートソンに敗れたが、2度目のゴールデン・グローブ賞主演男優賞 (ドラマ部門) を受賞した。
 (左の写真)『冬のライオン』 キャサリン・ヘップバーンと

 ・『チップス先生さようなら』 (1969年/監督:ハーバート・ロス) で、2年連続4度目のアカデミー賞主演男優賞候補となるも、『勇気ある追跡』 のジョン・ウェインに敗れた。ゴールデン・グローブ賞の主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門) を受賞した。
 (右の写真) 『チップス先生さようなら』 ペトゥラ・クラークと
Goodbye,_Mr._Chips-2

 ・『The Ruling Class (1972年/日本未公開) で5度目のアカデミー賞主演男優賞候補となるも、『ゴッドファーザー』 のマーロン・ブランドに敗れた。
Under Milk Wood
The_Ruling_Class
Man_of_La_Mancha
Under Milk Wood 』 (1972年)
エリザベス・テイラー、リチャード・バートンと

The Ruling Class 』 (1972年)
『ラ・マンチャの男』 (1972年)
ソフィア・ローレンと

 ・1975年、腹部に悪性腫瘍が見つかり、胃とすい臓の大部分を摘出する手術を受けた。1978年には、血液の疾患に罹り、再度命が危ぶまれる状況に陥ったが奇跡的に回復した。

 ・『スタントマン』 (1960年) で6度目、『My Favorite Year(1982年/日本未公開) で7度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。受賞を逃すこと7回。最多のリチャード・バートンに並んだ。
The_Stunt_Man.
My_Favorite_Year
『スタントマン』 (1980年)
My Favorite Year 』 (1982年)
The_Last_Emperor
High_Spirits
The_Rainbow_Thief
『ラストエンペラー』
(1987年/監督:ベルナルド・ベルトルッチ)

『プランケット城への招待状』
(1988年/監督・ニール・ジョーダン)
『ホドロフスキーの虹泥棒』 (1990年)
オマー・シャリフ(右)と

 ・2003年、アカデミー賞名誉賞を受賞。当初、現役である以上、演技賞の受賞を目指すとして固辞していたが、娘たちに促されて授賞式に出席したという。

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 アカデミー賞授賞式。プレゼンターはメリル・ストリープ



Venus
 ・『ヴィーナス』 (2006年)で、24年ぶり8度目のアカデミー賞主演男優賞候補となるも受賞は逃し、残念の回数で単独トップになった。
 (左の写真) 『ヴィーナス』 ジョディ・ウィテカと
 
* 女優ではグレン・クローズの7回 (主演4回、助演3回) が最多 (2019年現在)

 ・2006年、映画雑誌 「Premiere 」 が、史上最高の演技ベスト100を選出し、 『アラビアのロレンス』 のピーター・オトゥールが第1位に。
 アカデミー賞主演男優賞で最多の8回の残念という記録もさることながら、『アラビアのロレンス』 での演技でオスカー像を獲得出来なかった悲運。同賞史上最も偉大な敗者だと言える。
 (右の写真) アカデミー賞名誉賞受賞時。プレゼンターのメリル・ストリープと

 ・2012年、引退を表明。
Peter_O'Toole_Oscar

Lawrence_of_Arabia-3
Lawrence_of_Arabia-4
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『アラビアのロレンス』 (1962年)


 ・2013年81歳で他界。

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