20世紀・シネマ・パラダ
イス
理由なき反抗
Rebel Without a Cause
監督:ニコラス・レイ
(1955年/アメリカ)
◆ The
First American Teenager ジェームズ・ディーンの人気作品
復活祭の夜。高校生のジム は路
上で酔い潰れて補導された。警察署には、父親と喧嘩して夜間外出したジュディ 、母親の拳銃で子
犬を撃ち殺したプレイトウ も補導されていた。
ジムは暴力事件を起こして、この町に引っ越して来たばかりだった。彼は少年課のレイ 刑事に説
得され、迎えに来た両親と一緒に帰宅した。
ジムは転校先へ初登校した。ジュディもプレイトウも同じ学校の生徒で、ジュディは不良グ
ループの仲間だった。
プラネタリウムでの授業中、ジムは不良グループに目をつけられ、リーダーのバズ とナイフで決
闘した。しかし、守衛に止められ、夜、‟チキン・ラン”で決着をつけることになった。
帰宅したジムは父親の威厳のない態度に苛立ち、ジュディは愛情を示さない父親と喧嘩し、各
々家を飛び出し、‟チキン・ラン”の決闘場へと向かった。
‟チキン・ラン”が行われる断崖絶壁には、不良グループだけでなく、ジムを慕っているプレ
イトウも駆けつけていた。
‟チキン・ラン”
VIDEO
帰宅したジムは事の顛末を両親に打ち明け、警察に届け出ると主張した。しかし、両親はいつ
もの通
り問題と向き合わずに逃げようとし、ジムは父親に怒りをぶつけた。
ジムは警察署へ行ったが、頼りにしていたレイ刑事が不在だった。家へ引き返すと、外でジュ
ディが待っていた。ジムはプレイトウから教えられた空き家へジュ
ディを誘った。
その頃、不良グループの3人がジムを探し回っていた。彼等はプレイトウを襲ってジムの自宅
を突き止めた。プレイトウは母親の拳銃を手に家を飛び出した。
プレイトウは空き家でジムとジュディに合流し、敷地の中を案内した。ジムとジュディが眠り込んでしまったプレイトウを残して屋敷の中で愛を語り合っ
ている時、プレイトウは不良たちに取り囲まれてしまった。動転したプレイトウは拳銃を取り出し、不良の1人に向かって発砲した…。
『理由なき反抗』 予告編
VIDEO
◆ 主な出演者など
・ニコラス・レイ監督が執筆した原案を2人の脚本家が脚色したストーリーで、元のタイトル
は「The Blind Run 」だった。
当初、白黒で撮影されていたが、『エデンの東』 公開後、ジェームズ・ディーンの人気
が沸騰。製作費がアップされ、カラー作品となった。
(右の写真)ニコラス・レイ監督(左)、ジェームズ・ディーン
・「Rebel
Without a Cause 」 …
心理学者のロバート・M・リンドナーが犯罪常習者にインタビューした内容を小説風に著した本 (1944
年出版)のタイトル。ワーナー・ブラザース社が映画化を企画し、銀幕デビュー前のマーロン・
ブランド がスクリーン・テストを受けてもいた(1947年)が、製作取り止めとなった。タイトルだけが本作に採用されたが、内容は全く異なる。
・ジェームズ・ディーンは役作りに没頭し、アドリブも許されていた。オープニングの路上で
酔い潰れるシーンは脚本には無く、ジミーの思いつきで撮影されたという。また、ナイフで決闘するシーンでは、本物のナイフを使用していたとの伝説も残って
いる。
(左の写真)映画の冒頭。路上で酔い潰れたシーンのジェームズ・ディーン
・撮影は1955年3月から5月。サンタモニカ高校(ドー
ソン校の場面) 、グリフィス天文台(プラネタリウムの場面) 、『サンセット大通り』 (1950年) で
も使用された屋敷(空き家の場面) 等で撮影された。
(右の写真)『サンセット大通り』では、ウィリア
ム・ホールデン が死体となって浮いたプールにて。ナタリー・ウッド、ジェームズ・ディーン、サル・ミネオの3人。
・アカデミー賞では、助演男優賞(サル・ミネオ) 、
助演女優賞(ナタリー・ウッド) 、脚本(原案)賞(ニコラス・レイ) の
3部門でノミネートされたが受賞は逃した。
同年、ジェームズ・ディーンは『エデンの東』の演技で主演男優賞にノミネートされていた。
(左の写真) ジェームズ・ディーン、ナタリー・ウッド
・ティーンエイジという概念は1950年代に成立し、1955年はティーンエイジャーの文
化が開花した年だった。荒れるハイスクールを描いた映画『暴力教室』の主題曲‟ロック・アラウンド・ザ・クロック”が大ヒットし、ロックン・ロールの時代
が幕を開いた。そして、ジェームズ・ディーンの主演作が公開され、ジミーはティーンエイジャーたちのアイドル、象徴的な
存在となった。
・1975年、ジェームズ・ディーンの生涯を描いたTVのドキュメンタリー番組「The
First American Teenager 」が放映され、日本では『ジェームズ・ディーンのすべて 青春よ永遠に』(1977年) のタイトルで劇場公開された。サル・ミネオ曰く、「それまでは大人と子供しかいなかった…。ジ
ミーこそファースト・アメリカン・ティーンエイジャーだ 」。
*
『理由なき反抗』撮影時の実際の年齢 …
ジェームズ・ディーン24歳、ナタリー・ウッド16歳、サル・ミネオ16歳。
・ 1998年、 AFI(アメリカ映画協会)が選定した
「アメリカ映画100年ベスト100」で第59位に。
・グリフィス天文台にはジミーの銅像が設置されており、彼が本作の中で運転したマーキュリー・クーペ(1949年型)は、ネバダ州リノの国立自動車博物
館に展示されている。
(右の写真)グリフィス天文台のジミーの銅像
おまけ
「このチキン野郎 」 … 本編では使用されなかったシーン
◆ ピックアップ … ニコラス・レイ監督
Nicholas Ray 1911
-1979(アメリカ)
・『ブルックリン横丁』(1945年/監督:エリア・カザ
ン ) の台詞監督等を経て、ファーリー・グレンジャー主演のフィルム・ノワール作品『夜の人々』(1949
年) で監督デビュー。ハンフリー・ボガート 主演の知られざる名作
『孤独な場所で』(1950年) 、ジョー
ン・クロフォード 主
演の異色の西部劇『大砂塵』(1954年) 等を監督。ジェームズ・ディーン主演の
『理由なき反抗』(1955年) は代表作となった。
『孤独な場所で』撮影時
ハンフリー・ボガート (中央)、グロリア・グレアムと
『大砂塵』撮影時
ジョーン・クロフォードと
『理由なき反抗』撮影時
ジェームズ・ディーン(右)と
『北京の55日』
(1963年)撮影時
エヴァ・ガードナー と
・晩年、何本かの映画に俳優として出演。『アメリカの友人』(1977年/監督:ヴィム・ヴェンダース) で
は、『理由なき反抗』にも出演したデニス・ホッパーと共演した。
(右の写真)『アメリカの友人』
デニス・ホッパー(手前)と