20世紀・シネマ・パラダ イス
ジェームズ・ディーン
James Dean
1931-1955(アメリカ)
◆
代表作
エデンの東
East of Eden
(1955年/アメリカ)
理由なき反抗
Rebel Without a Cause
(1955年/アメリカ)
ジャイアンツ
Giant
(1956年/アメリカ)
◆
永遠の青春スター
・
1931年
、インディアナ州マリオン生れ。本名は
James Byron Deen
。
5歳の時に父親の仕事の都合でロスアンゼルスに移住。
9歳の時に母親
(29歳)
が卵巣がんで他界。以後、インディアナ州フェアマウントで農場を営む伯母
(若しくは叔母)
夫妻のもとで育てられた。
(右の写真)子供の頃のジミー
・ 高校時代は野球やバスケットボールに励みつつ、州政府主催のスピーチ・コンテストでチャールズ・ディケンズの短編小説「狂人の手記」を朗読して優勝し、全米大会でも6位に入賞。非凡 な才能を発揮していたが、一番熱中していたのは演劇で、卒業時には役者志望であることを教師に打ち明けていたという。
また、16歳の誕生日に伯母夫妻からバイクをプレゼ ントされ、スピードの世界に目覚め、魅了されてもいた。
(左の写真)高校時代のジミー
・1949年、高校を卒業。ロスアンゼルスに住む父親
(再婚していた)
の元で暮らし始め、役者になることに反対していた父親の勧めで サンタモニカ市立大学の法律科に入学するも1年で退学。
父親の元を離れ、演劇の盛んなカリフォルニア州立大学ロスアンゼルス校(UCLA)の演劇科に入学。演劇部の舞台「マクベス」に出演もした。
(右の写真)UCLA時代。舞台「マクベス」でマルカム役を演じたジミー(右)
・大学でCM出演者を募集する広告を見つけ、100人近くの応募者の中から選ばれた1人としてペプシ・コーラのCMに出演。
・エキストラではあるが、朝鮮戦争を舞台にした『折れた銃剣』
(1951年)、
‟底抜けコンビ”
ディーン・マーティン&ジェリー・ルイス
主演の『底抜け艦隊』
(1952年)
等に出演。
演技の教師だった俳優ジェームズ・ホイットモアの勧めもあり、ニューヨークで本格的に役者を目指すことになった。
(左の写真)銀幕デビュー作『折れた銃剣』出演時
◆
エキストラ出演作品リスト(劇場用映画)
・『折れた銃剣』(1951年) … 監督:サミュエル・フラー、主演:リチャード・ベイスハート
・『底抜け艦隊』(1952年) … 監督:ハル・ウォーカー、主演:ディーン・マーティン&ジェリー・ルイス
・『僕の彼女はどこ?』(1952年) … 監督:ダグラス・サーク、主演:
ロック・ハドソン
・『デッドラインUSA』(1952年) … 監督:リチャード・ブルックス、主演:
ハンフリー・ボガート
・『勝負に賭ける男』(1953年) … 監督:
マイケル・カーティス
、主演:
ジョン・ウェイン
・1951年10月、ニューヨークに到着。翌年、厳しいテストに合格し、最年少
(当時)
で
アクターズ・スタジオ
に入門。
ブロードウェイでのデビュー作「ジャガーを見よ」
(1952年12月)
で、準主役である精神異常の青年を好演したが、劇が難解すぎると不評で、僅か4日で打ち切りとなった。
(右の写真)舞台「ジャガーを見よ」 アーサー・ケネディ(左)と
・厳しい下積みの日々が続いたが、アンドレ・ジッド原作の舞台劇「背徳者」
(1954年2月〜
)でアラブの青年に扮した演技が絶賛され、アクターズ・スタジオの創設者の1人でもある
エリア・カザン
監督の映画
『エデンの東』
(1955年)
の主役に抜擢されることとなった。
(左の写真)舞台「背徳者」
・『エデンの東』への出演が決まる前、『銀の盃』
(1954年)
の主役のオファーを受けたが脚本に不満で断り、代わりに
ポール・ニューマン
が役を得て銀幕デビューを果たした。
2人はアクターズ・スタジオで学んだ仲であり、ジミーが撮影中のポール・ニューマンを訪ねた際、紹介されたのが共演者のピア・アンジェリだった。
(右の写真)ピア・アンジェリと。『エデンの東』撮影現場にて
・ジミーとピアは惹かれ合ったが、ジミーの礼儀知らずな態度を嫌ったピアの母 親が2人の仲 を引き裂いた。アンジェリ家はローマ・カトリック教徒だったが、ジミーはクエーカー教徒だったため、交際を認めなかった…という悲劇のロマンス的な伝説が 有名だが、気分の浮き沈みが激しいジミーの性格が災いし、ピアが離れていったとも、飽きっぽいジミーが自ら離れていったとの説もある。いづれにしても、2 人が交際していた期間は僅か4ヶ月あまりだったという。
(左の写真)ピア・アンジェリと
・ピアと出会う前、ニューヨークでの下積み時代のひと時、ダンサー兼歌手の‟デイジー”ことエリザベス・シェリダンという女性と交際しており、ピアと別れた後は、後に初代ボンド・ガールとなる
ウルスラ・アンドレス
などと浮名を流した。
ピア・アンジェリ
Pier Angeli
1932-1971(イタリア)
・思春期映画のブームを作った
イタリア映画『明日では遅すぎる』
(1950年)
で
鮮烈なデビューを飾り、日本でも多くのファンを獲得した。
ハリウッドに招かれ、『三つの恋の物語』
(1953年)
、『銀の盃』
(1954年)
、『傷だらけの栄光』
(1956年)
等に出演したが大成せず、ジェームズ・ディーンの恋人として名を残すことなった。
『明日では遅すぎる』(1950年)
『三つの恋の物語』(1953年)
カーク・ダグラス
と
・
2度の結婚・離婚歴
(1954〜1958年)
、
(1962年〜1969年)
がある。
・
1971年、39歳の時に睡眠薬の多量摂取により命を絶った。
・
『エデンの東』
(監督:エリア・カザン)。
撮影:1954年5月〜8月。公開:1955年3月。
父親から愛されずに苦悩するナイーブな青年を好演。
死後、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
・
『理由なき反抗』
(監督:ニコラス・レイ)。
撮影:1955年3月〜5月。公開:1955年10月。
当初、白黒で撮影されていたが、『エデンの東』公開後、ジミーの人気が沸騰。製作費がアップされ、カラー作品となった。
ジミーのファッションをはじめ、当時の若者に多大な影響を及ぼした。
・
『ジャイアンツ』
(監督:
ジョージ・スティーヴンス
)
。
撮影:1955年5月〜10月。公開:1956年10月。
牧場主夫人に想いを寄せるひねくれ者の牧童が、石油王になるまでを演じた。
再びアカデミー賞主演男優賞の候補となった。死後、2年連続でノミネートされたのは後にも先にもジミーだけ。
・
1955年9月30日
、交通事故により他界。享年
24歳
。
(
こちら
もご参照下さい)
・日本では、『エデンの東』が公開
(10月4日)
される直前で、関係者が主役のニューフェイスをどのように売り出そうかと検討している矢先に訃報が届いた。
・生きていれば、ボクシングの世界ミドル級チャンピオン、ロッキー・グラシアーノの伝記映画『傷だらけの栄光』
(1956年/監督:
ロバート・ワイズ
)
に出演する予定だった。同作はポール・ニューマン主役で映画化され、ピア・アンジェリがヒロインを務めた。
(左の写真)愛車のポルシェ・550スパイダーと
・1999年
、
AFI(アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」で、男優部門の第18位に選出。
・死後、半世紀以上を経た現在でも、世界中の多くの若者たちの憧れの存在であり続けている。
< ジェームズ・ディーン写真館 >
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