20世紀・シネマ・パラダイス

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William_Holden

ウィリアム・ホールデン

William Holden

 
1918-1981(アメリカ)

 

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     代表作
 
Sunset_Boulevard
Stalag_17
サンセット大通り
Sunset Boulevard
(1950年/アメリカ)
第十七捕虜収容所
Stalag 17
(1953年/アメリカ)
Sabrina
Love_Is_a_Many-Splendored_Thing
麗しのサブリナ
Sabrina
(1954年/アメリカ)
慕情
Love is a Many-Splendored Thing
(1955年/アメリカ)
Picnic
The_Bridge_on_the_River_Kwai-3
ピクニック
Picnic
(1955年/アメリカ)
戦場にかける橋
The Bridge on the River Kwai
(1957年/英・米)
The_Wild_Bunch
Network
ワイルドバンチ
The Wild Bunch

(1969年/アメリカ)
ネットワーク
Network
(1976年/アメリカ)


     ハリウッドの正統派2枚目スター

 ・1918年、イリノイ州生れ。本名はWilliam Franklin Beedle Jr.。3歳の時にカリフォルニア州に移住。パサデナ・ジュニア・カレッジ卒業後、地元の舞台に出演しているところをパラマウント社にスカウトされ、『Prison Farm(1938年)、『Million Dollar Legs(1939年)にエキストラとして出演した。
 (右の写真)赤ん坊の頃のウィリアム・ホールデン
William_Holden-5.

Golden_Boy-2.
 ・大ヒットした舞台劇の映画化作品『ゴールデン・ボーイ』(1939年/監督:ルーベン・マムーリアンの主役に抜擢され、初めて名前がクレジットされることになったが、彼の名が「カブトムシ (Beetle)みたいだ」という話になり、その場にいたスカウトマンの元妻で女優のグロリア・ホールデンの姓を拝借することになった。
 (左の写真)『ゴールデン・ボーイ』アドルフ・マンジュー(中央)、バーバラ・スタンウィック
* グロリア・ホールデン … 『魔人ドラキュラ』(1931年)の続編『女ドラキュラ』(1936年)でドラキュラの娘を演じた。
 
 ・『ゴールデン・ボーイ』の撮影時、製作者が彼に不満でクビにされそうになったが、バーバラ・スタンウィックが擁護して降板を免れた。ホールデンはこの時の恩を忘れず、毎年、撮影の記念日に彼女に花束を贈っていたという。 
 (右の写真)『ゴールデン・ボーイ』バーバラ・スタンウィックと
Golden_Boy

 ・デビュー時は、「隣の男の子 = The Boy Next Door」というイメージで売り出された。
Invisible_Stripes
Our_Town
『前科者』(1939年)
ジョージ・ラフト(中央)、ハンフリー・ボガート(右) と
『我等の町』(1940年/監督:サム・ウッド
 マーサ・スコットと
Arizona
I_Wanted_Wings
『アリゾナ』(1940年)
ジーン・アーサー

『空の要塞』(1941年)
ヴェロニカ・レイク
Texas
/The_Fleet's_In
『掠奪の町』(1941年)
クレア・トレヴァー
The Fleet's In』(1942年)
ドロシー・ラムーア


Brenda_Marshall
 ・1941年、女優のブレンダ・マーシャルと結婚。彼女の前夫との間の娘を養子にし、長男と次男を授かった。
 (左の写真)妻のブレンダ・マーシャルと

 ・第2次世界大戦中は陸軍航空隊に入隊。映画俳優として恵まれたデビューを飾ったが、4年近く銀幕から離れていたことが影響したのか、戦後暫らくの間は低迷した。
Rachel_and_the_Stranger
Apartment_For_Peggy
『荒原の女』(1948年)
ロレッタ・ヤング
Apartment for Peggy』(1948年)
ジーン・クレイン


Sunset_Boulevard-2
 ・『サンセット大通り』(1950年/監督:ビリー・ワイルダーが大ヒット。
 内定していたモンゴメリー・クリフトが辞退し、ホールデンが抜擢された。同作でアカデミー賞の主演男優賞に初ノミネートもされた。
 (左の写真)『サンセット大通り』 グロリア・スワンソン

 ・日本では未公開だったが、『Born Yesterday(1950年/監督:ジョージ・キューカーも大ヒット。1950年は飛躍の年となった。
Union Station
Born_Yesterday
『武装市街』(1950年)
ナンシー・オルソン、バリー・フィッツジェラルド(右)と
Born Yesterday 』(1950年)
ジュディ・ホリデイと

 ・ビリー・ワイルダー監督と再び組んだ『第十七捕虜収容所』(1953年)も大ヒット。アカデミー賞の主演男優賞を受賞し、名実ともにトップ・スターの仲間入りを果たした。
 (右の写真)『第十七捕虜収容所』 ドン・テイラー(左)と
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Holden_Oscar  ・アカデミー賞授賞式でのスピーチは、たった一言「Thanks」。というのも、テレビ中継の時間が押していたからだった。
 後日、受賞の感謝の気持ちを伝えるために業界誌に広告を出したという。
 (左の写真)オスカー像を手にするウィリアム・ホールデン


The_Moon_Is_Blue
Escape_from_Fort_Bravo
『月蒼くして』(1953年/監督:オットー・プレミンジャー
マギー・マクナマラと

『ブラボー砦の脱出』(1953年/監督:ジョン・スタージェス
エレノア・パーカーと


 ・ 1954年、ドル箱(マネー・メイキング)スター・ベストテンに第7位で初登場。以後、1955年(4位)、1956年(1位)、1957年(7位)、 1958年(6位)、1961年(8位)とランク入り。日本の洋画誌「スクリーン」の人気投票でも、1954年に第1位で初登場すると、1959年までラ ンク入りした。
 (右の写真)『重役室』(1954年/監督:ロバート・ワイズ) バーバラ・スタンウィックと
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Sabrina  ・ビリー・ワイルダー監督との3作目『麗しのサブリナ』(1954年)で共演したオードリー・ヘップバーンとは恋愛関係になったとか。ヘップバーンは子供を欲しがっていたが、ホールデンがパイプカットの手術を施した体だったために結ばれなかったとの説がある。本当か?
 (左の写真)『麗しのサブリナ』オードリー・ヘップバーンと

 ・『トコリの橋』(1954年)の撮影で来日。箱根の富士屋ホテル等で撮影された。また、来日中に三船敏郎と面談したことがきっかけで、三船の主演作『宮本武蔵』(1954年)の米国版でナレーターを務めた。
 * 『宮本武蔵』 … アカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞
 (右の写真)『トコリの橋』 グレース・ケリー
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The_Country_Girl  ・グレース・ケリーと共演した 『トコリの橋』、『喝采』(1954年)の2作品は、本国では同じ12月に公開された。1950年代のホールデンは引く手あまたの人気ぶりだった。
 (左の写真)『喝采』グレース・ケリー、ビング・クロスビー(右)と


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