20世紀・シネマ・パラダイス

hearttbar
Grace_Kelly

グレース・ケリー

Grace Kelly

 1929-1982(アメリカ)


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   代表作

High_Noon-2
Mogambo-1
真昼の決闘
High Noon

(1952年/アメリカ)
モガンボ
Mogambo

(1953年/アメリカ)
Dial_M_for_Murder
Rear_Window-2
ダイヤルMを廻せ!
Dial M for Murder
(1954年/アメリカ)
裏窓
Rear Window

(1954年/アメリカ)
The_Country_Girl
To_Catch_a_Thief-2
喝采
The Country Girl
(1954年/アメリカ)
泥棒成金
To Catch a Thief
(1955年/アメリカ)


    ハリウッドのシンデレラ

 ・1929年、ペンシルベニア州生れ。裕福な家庭で、子供の頃からダンスやピアノ、声楽などを習っていた。
  父親のジョン … ボート競技の選手として、2度のオリンピックで3個の金メダルを獲得。煉瓦会社の経営で財を成した。
   ・母親のマーガレット … ペンシルベニア大学で女性アスリートを指導した最初の女性指導者。若い頃はモデルだった。 
  ・兄妹 … オリンピックのボート競技で銅メダルを獲得した兄の他、姉と妹がいた。
  ・伯父のウォルター … ボードビルの芸人として人気を博し、何本か映画にも出演した。
  ・伯父のジョージ … 劇作家。ピューリッツアー賞受賞作「クレイグの妻」(1925年)は何度か映画化もされた。
  (右の写真)子供の頃の家族写真。左上がグレース・ケリー
Grace_Kelly_Family

The_Father_1949
 ・12歳の時からアマチュア劇団に参加。好きな俳優はイングリッド・バーグマンジョゼフ・コットンで、高校の卒業アルバムに女優になるのが夢だと書いた。

 ・1947年、当時は女子大だったベニントン大学を不合格になると、父親の反対を押し切ってニューヨークのアメリカン演劇アカデミーに入 学。モデルなどで生活費を稼ぎながら演技を学び、舞台劇「父」(1949年)でブロードウェイ・デビュー。翌1950年にはTVにも初出演した。
 (左の写真)舞台「父」出演時

 ・TV出演がきっかけとなり、20世紀FOX社の『Fourteen Hours(1951年/監督:ヘンリー・ハサウェイで銀幕デビュー。ホテルの15階から飛び降り自殺を図る男と、それを止めさせようとする警官を主人公としたサスペンス映画。彼女はその騒動を見て、離婚を思い止まる人妻を演じたが、あまり大きな役ではなく、この作品ではブレイクしなかった。
 (右の写真)『Fourteen Hours
Fourteen_Hours

High_Noon
 ・オフ・ブロードウェイの舞台に出演しているところをスタンリー・クレイマーにスカウトされ、『真昼の決闘』(1952年/監督:フレッド・ジンネマンのヒロイン役に大抜擢された。主役のゲーリー・クーパーからカメラの前で演技をする際のコツを教わったという。クーパーはグレースの事を「これまでのハリウッドの女優とは異なる魅力がある」と評した。
 (左の写真)『真昼の決闘』 ゲーリー・クーパーと

 ・MGM社と専属契約し、クラーク・ゲーブル主演の『モガンボ』(1953年/監督:ジョン・フォードに 出演。クーパーの次がゲーブル。ハリウッドの2大レジェンドと立て続けに共演する幸運を得た。彼女は運を生かし、寄せられた期待に応えた。同作でアカデミー賞の助演女優賞にノミネートされ、オスカーは逃したが、ゴールデン・グローブ賞の助演女優賞を受賞した。
 (右の写真)『モガンボ』 クラーク・ゲーブルと
Mogambo

Dial_M_for_Murder-2
 ・共演者だけでなく監督にも恵まれたが、彼女の魅力を最も引き出したのがアルフレッド・ヒッチコック監督。同監督との最初の作品はワーナー・ブラザース社に貸し出されて出演した『ダイヤルMを廻せ!』(1954年)。ブロードウェイの舞台劇を映画化した作品だが、ヒッチコック監督にとって久々の大ヒット作品となった。
 (左の写真)『ダイヤルを廻せ!』

 ・ヒッチコック監督のお気に入りとなり、次作『裏窓』(1954年)でもヒロインに起用された。こちらはMGM社の作品だが、前作から数ヶ月後、異例とも言える早さで公開された。グレース・ケリーというヒロインを得て、ヒッチコック監督の創作意欲が溢れたのかも?。ヒッチコック監督とグレース・ケリーのキャリアで最大のヒット作となった。
 (右の写真)『裏窓』 ジェームズ・ステュアートと 
Rear_Window-3

The_Country_Girl-2
 ・MGM社を説得し、パラマウント社で『喝采』(1954年)に出演。交通事故で1人息子を亡くして以来、酒に溺れ、落ちこぼれたかつての人気歌手である夫と、彼を檜舞台に復帰させようと尽力する演出家。2人の男性に翻弄され、愛されもし、心揺れる女性を巧みに演じた。
  (左の写真)『喝采』 ウィリアム・ホールデン(左)、ビング・クロスビー(右)と

 ・1954年には、上記の3作の他、南米のコロンビアを舞台にした冒険ロマンス『緑の火・エメラルド』朝鮮戦争を題材とした『トコリの橋』にも出演。この年、ハリウッドで最も輝いていた女優だったと言える。
Green_Fire The_Bridge_at_Toko-ri
『緑の火・エメラルド』(1954年)
スチュワート・グレンジャーと
『トコリの橋』(1954年)
ウィリアム・ホールデンと


 ・1954年度のアカデミー賞で、本命視されていた『スタア誕生』のジュディ・ガーランドに競り勝ち、『喝采』での演技で主演女優賞を受賞した。


youtube
 アカデミー賞授賞式。プレゼンンターはウィリアム・ホールデン。



 ・プレス対応の場で、主演男優賞を受賞したマーロン・ブランドにキスをするように求められたグレースは、「彼が私にするべきよ」と笑顔で応え、ブランドからキスを贈られた。ちなみに、彼女はブランドの受賞作『波止場』への出演オファーを受けたが、『裏窓』に出演するため辞退していた。
 (右の写真)アカデミー賞授賞式にて。マーロン・ブランドと
Grace_Kelly_Oscar

To_Catch_a_Thief
 ・1955年の4月、『喝采』が出品されたこともあって、カンヌ国際映画祭に参加。モナコ公国の大公レーニエ3世と運命の出会いをした。同年8月、ヒッチコック監督との3作目『泥棒成金』公開(撮影は1954年)。同年12月、フィラデルフィアの実家に訪ねて来たレーニエ3世からプロポーズを受けた。
 (左の写真)『泥棒成金』 ケーリー・グラント

 ・1956年1月、レーニエ3世との婚約を発表。
 前年の10月に撮影された『白鳥』 で、彼女は奇しくも王妃に扮していた。1925年、1930年に次ぐ3度目の映画化となる作品で、1950年にはTVドラマにもなった。そのTV ドラマに出演していたのは他ならぬグレース・ケリー。MGM社はこの新作をグレースの結婚に合わせて公開した。
 (右の写真)『白鳥』(1956年)アレック・ギネス
The_Swan

High_Society
 ・キャサリン・ヘップバーン主演の『フィラデルフィア物語』(1940年)をミュージカルにアレンジした『上流社会』(1956年)が最後の作品となった。婚約発表後に撮影され、彼女はレーニエ3世から贈られた婚約指環をはめて撮影に臨んだ。映画だけでなく、ビング・クロスビーとデュエットした「True Love」も100万枚を超えるヒット曲となった。
 (左の写真)『上流社会』 ビング・クロスビー(左)、フランク・シナトラ

 ・1956年4月、レーニエ3世と結婚。結婚式の模様はTV中継され、3,000万人が視聴したとされている。


youtube  ロイヤル・ウェディングのニュース映像



 ・結婚後は3人の子供を授かり、プリンセスとしての公務の他、多くの慈善事業にも尽力した。
 何度か銀幕復帰の噂も立った。ヒッチコック監督が『マーニー』(1964年)への出演を要望し、彼女も復帰を望んだとも言われているが、実現はしなかった。ただ、麻薬撲滅のため国連がスポンサーとなり、ユル・ブリンナーマルチェロ・マストロヤンニといった各国のオール・スターが1ドルの報酬で出演した『悪のシンフォニー』(1966年)のナレーターを務めた。
 (右の写真)家族写真
Grace_Kelly-4

Grace_Kelly-5
 ・1981年、神戸ポートアイランド博覧会視察のため、夫妻で来日。
 (左の写真)来日時。昭和天皇と

 
1982年9月、車を運転中に脳梗塞を発症し、車ごと崖から転落。意識不明のまま、翌日に亡くなった。享年52歳

 ・1999年AFI(アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」で女優部門の第13位に選出。

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< グレース・ケリー写真館 >


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