20世紀・シネマ・パラダ
イス
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ユル・ブリンナー
Yul Brynner
1920-1985 (スイス)
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◆ 代表作
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王様と私
The King and I
(1956年/アメリカ) |
十戒
The Ten Commandments
(1956年/アメリカ) |
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追想
Anastasia
(1956年/アメリカ) |
荒野の七人
The Magnificent Seven
(1960年/アメリカ) |
◆ シャムの王様を演じ続けたスキンヘッドの名優
・1920年、ロシアのウラジオストク(当時は極東共和国ウラジオストク)生れ。本名はYuliy Borisovich Brynner。父親はスイス系ロシア人で、母親はユダヤ系ロシア人だった。但し、本人は次のように語っていた。
1915年、サハリン生れ。本名はTaidje Khan。父親はスイス国籍のモンゴル人で、母親は国籍不明のジプシー。 |
彼の死後、息子が伝記を出版し、以後、1920年生れ…との説が定着している。
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・3歳の頃、父親が愛人と出奔。母親、姉と中国のハルビン(1923年〜)、フランスのパリ(1932年〜)へ移住。パリでは通学せずに、ジプシー楽団の一員としてナイトクラブでギターの弾き語りをしたり、サーカス団のブランコ曲芸師として働いていた。(右の写真)子供の頃。母親と
・1940年、ニューヨークへ。戦争情報局でフランス語のアナウンサーとして働きながら演技を学び、シェークスピア劇「十二夜」(1941年)でブロードウェイ・デビュー。B級フィルム・ノワール作品『ニューヨーク港』(1949年)で銀幕デビューした。 |
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・その後、TVドラマの演出を手掛けていたが、舞台で共演した女優から、ロジャース(作曲家)&ハマースタイン(作詞家)の新作ミュージカル劇「王様と私」のシャムの王様役を薦められ、脚本に感銘した彼はオーディションを受けて役を射止めた。 |
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・1951年3月にスタートした「王様と私」の公演は3年に及ぶロングランの大ヒットとなり、1952年のトニー賞でミュージカル助演男優賞を受賞した。役作りのため頭髪を剃り、以後、スキンヘッドはトレードマークとなった。
(左の写真)舞台「王様と私」 ガートルード・ローレンスと |
* ガートルード・ローレンス … 本作でトニー賞のミュージカル主演女優賞を受賞したが、1952年9月、癌により54歳で他界。代役はコンスタンス・カーペンターが務めた。 |
・舞台「王様と私」の全米ツアー(1954年)後、 映画版『王様と私』(1956年)でもシャムの王様を演じ、アカデミー賞主演男優賞を受賞。授賞式では、「間違いでないことを願っています。たとえ間違いでも (オスカー像を)返す気はありません」と喜びのスピーチをした。
(右の写真)『王様と私』 デボラ・カーと |
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・同1956年には、『十戒』、『追想』といった大ヒット作、話題作にも出演。映画俳優として大ブレイクした。
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・黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)に感銘し、映画化権を取得。西部劇にアレンジした『荒野の七人』(1960年)は人気作となり、『続・荒野の七人』(1966年)にも出演した。
(左の写真)『荒野の七人』
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・1972年、TVドラマ「アンナとシャム王」で久方ぶりにシャムの王様を演じた。
・1977年5月から1978年12月まで、ブロードウェイで「王様と私」のリバイバル公演に出演。翌1979年にはロンドンでも公演した。
(右の写真)舞台「王様と私」 コンスタンス・タワーズと |
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・1981年、「王様と私」の全米ツアーがスタート。1983年9月、肺癌に侵されていることが発覚し、治療のため数ヶ月間公演の休止を余儀なくされた。 |
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・1985年1月、ブロードウェイで「王様と私」のリバイバル公演がスタート。自分の余命が幾ばくも無いことを知っていたという。同年6月、トニー賞の特別賞を受賞し、6月30日に公演が終了。シャムの王様を演じた回数は4,625回にも及んだ。
(左の写真)舞台「王様と私」 メアリー・ベス・ペイルと |
・1985年10月、65歳で他界。12歳から51歳まで煙草を吸っていたという。彼の希望により禁煙を訴えるCMが撮影されており、死後に全米で放映された。
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ユル・ブリンナー。禁煙を訴えるCM
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