20世紀・シネマ・パラダイス
キャサリン・ヘップバーン
Katharine Hepburn
1907-2003 (アメリカ)
◆
代表作
勝利の朝
Morning Glory
(1933年/アメリカ)
若草物語
Little Women
(1933年/アメリカ)
フィラデルフィア物語
Philadelphia Story
(1940年/アメリカ)
アフリカの女王
The African Queen
(1951年/アメリカ)
旅情
Summertime
(1955年/イギリス・アメリカ)
招かれざる客
Guess Who's Coming to
Dinner
(1967年/アメリカ)
冬のライオン
The Lion in Winter
(1968年/イギリス)
黄昏
On Golden Pond
(1981年/アメリカ)
◆
アカデミー賞を4度受賞。「伝説のスター」 女優部門で第1位に選出された大女優
・
1907年
、コネチカット州にて、6人兄妹の長女として生れた。父親は著名な医師、母親は婦人参政権や産児制限運動に携わったていた
(6人の子供は多いと思うが…)
。リベラルで進歩的な家庭環境で育った。
子供の頃はお転婆で、髪を短く切り、水泳やテニス、ゴルフに励んでいた。ゴルフは16歳の時に州のジュニア大会で準決勝まで進んだ腕前であった。
・13歳の時に、大の仲良しだった2歳年上の長男トムが亡くなる不幸に見舞われた。
キャサリンが遺体の第一発見者で、朝、兄を起こしに部屋へ入ると、首を吊り、既に亡くなっていたという。数日前 に、芸人が首に縄を巻くトリック・シーンを観劇しており、それを真似ての事故とも言われている。
キャサリンは女優になってから、トムの生まれた月日を自分の誕生日にしていたこ とを自伝
(1991年出版)
で明らかにしている。
(右の写真) 母親と6人兄妹の集合写真。一番左がキャサリン。
・12歳の時にアマチュア劇団に入るなど、芝居好きであったキャサリンは、大学に入ってからも芝居に熱中した。
1928年、心理学の学位を取得して大学を卒業。両親を説得して演劇の道へ進んだ。
ボルチモアのストック劇団に入り、夏季公演でプロの役者としてデビュー。9月にはブロードウェイ・デビューも果たした。
(左の写真)
Bryn Mawr College
時代のキャサリン。煙草を吸って停学処分となったこともある。
・1928年12月、大学時代からの恋人であった
Ludlow Ogden
Smith
(ボルチモアの名家の息子)
と結婚。結婚後も女優を続け、発声とバレエをそれぞれ一流の指導者のもとで習い、役者としての基礎固めにも励んだ。
・ブロードウェイの舞台劇 「
A Worrior's Husband
」
(1932年)
での女戦士役で脚光を浴び、ハリウッドからオファーを受けた。映画に興味のなかったキャサリンは、断るつもりで舞台の1.5倍のギャラを要求。それをRKO社が承諾したため、図らずも映画デビューとなったという。
(右の写真) ブロードウェイの 「
A Worrior's Husband
」 出演時
・
ジョン・バリモア
主演の 『愛の嗚咽』
(1932年)
で銀幕デビュー。監督の
ジョージ・キューカー
とは、その後も9作品
(内2作はTV映画)
で組み、私生活でも生涯に渡る友人となった。
『愛の嗚咽』 ジョン・バリモアと
ジョージ・キューカー監督と (1940年)
・『愛の嗚咽』 の製作者は、後に
『風と共に去りぬ』
(1939年)
を製作したデビッド・O・セルズニック。キャサリンはスカーレット・オハラ役を熱望したとも言われているが、セルズニック曰はく、 「
レット・バトラーが10年以上も彼女(キャサリン)を追いかけるとは思えない…
」 。
・『風と共に去りぬ』 でアシュレー役を演じた
レスリー・ハワード
とも因縁がある。
キャサリンが銀幕デビューする前、レ スリー・ハワード主演の舞台 「
The Animal Kingdom
」
(1932年)
のヒロイン役に抜擢されたが、稽古の段階でそりが合わず、キャサリンは降板させられている。
(左の写真) レスリー・ハワードと
・3作目の『勝利の朝』
(1933年)
で、アカデミー賞主演女優賞を受賞。4作目の『若草物語』
(1933年/監督:ジョージ・キューカー)
も大ヒットし、ベネチア国際映画祭女優賞を受賞。
* 『勝利の朝』 … スーザン・ストラスバーグ、
ヘンリー・フォンダ
主演
『女優志願』 (1958年/監督:
シドニー・ルメット
) として再映画化。
『勝利の朝』
アドルフ・マンジュー
と
『若草物語』 後がキャサリン(次女ジョー役)。
前列左から、フランシス・ディー、
ジョーン・ベネット
、ジーン・パーカー
・映画女優として国際的な名声を獲得したが、順風満帆とは行かなかった。以後の出演作は興行的な失敗が続き、私生活では34年に
Ludlow Ogden
Smith
と離婚。その後、
ジョン・フォード監督
やタレント・エージェントのリーランド・ヘイワードと浮名を流したこともあった。
また、インタビュー嫌いなためマスコミとの関係も悪化。「
ブロードウェイから来た痩せて小生意気な女
」 と陰口を叩かれるようにもなった。
『乙女よ嘆くな』 (1935年/監督:
ジョージ・スティーヴンス
)
フレッド・マクマレー
と
* アカデミー賞主演女優賞にノミネート(2度目)
『男装』 (1936年/監督:ジョージ・キューカー)
ケーリー・グラント
と
『スコットランドのメアリー』 (1936年/監督:ジョン・フォード)
フレドリック・マーチ
と
『ステージ・ドア』 (1937年)
ジンジャー・ロジャース
(左)と
・『赤ちゃん教育』
(1938年/監督:
ハワード・ホークス
)
が赤字となると、全米の映画館主協会から 「
Box Office Poison
= 入場券売り場の毒 = 客の取れないスター
」 の1人として名前を挙げられてしまった。
キャサリンはRKO社との契約を自ら破棄し、コロンビア社で 『素晴らしき休日』
1938年/(監督:ジョージ・キューカー)
に出演したが、これも興行的に失敗作となった。
『赤ちゃん教育』 ケーリー・グラントと
『素晴らしき休日』 ケーリー・グラントと
・ 女優として窮地に立たされていたキャサリンにラブ・コールを送ったのが大富豪のハワード・ヒューズ。ヒューズはキャサリンとの結婚を望んでいたが、彼女は キャリア挽回を優先したという。
1939年、ヒューズから資金援助を受け、舞台 「フィラデルフィア物語」 の自主興行に打って出た。
(左の写真) 舞台 「フィラデルフィア物語」。
ジョゼフ・コットン
(左)、ヴァン・ヘフリン(右)と
舞台は大成功を収め、映画化のオファーが殺到。映画化の権利を保持していたキャサリンはMGM社と契約し、共演相手には
クラーク・ゲーブル
と
スペンサー・トレイシー
を希望したが、最終的に
ジェームズ・ステュアート
とケーリー・グラントが起用された。
映画 『フィラデルフィア物語』
(1940年/監督:ジョージ・キューカー)
は大ヒット。
キャサリンはアカデミー賞主演女優賞にノミネート
(3度目)
もされ、映画女優として復活を成し遂げた。
* 『フィラデルフィア物語』 …
グレース・ケリー
、
ビング・クロスビー
、
フランク・シナトラ
出演
『上流社会』 (1956年) として再映画化。
(右の写真) 『フィラデルフィア物語』 ケーリー・グラント(左)、ジェームズ・ステュアートと
・4度目のアカデミー賞主演女優賞候補となった 『女性No.1』
(1942年/監督:ジョージ・スティーヴンス)
で、スペンサー・トレイシーと初共演。
スペンサーの大ファンだったキャサリンが奔走し、共演を実現させたと言われている。
(左の写真) 『女性No.1』 スペンサー・トレイシーと
・スペンサー・トレイシーとは合計9作品で共演。
ハリウッド史に残る名コンビとなっただけでなく、私生活においても彼が亡くなるまでパートナーとしての関係を築いた。
スペンサーには障害を持った子供がいて、その子を育てている妻と別れることができず、キャサリンもそのことを承知の上での関係だったという。
(右の写真) スペンサー・トレイシーと
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