20世紀・シネマ・パラダイス
フレッド・ジンネマン
Fred Zinnemann
190
7
-1997(オーストリア/アメリカ)
◆
代表作
山河遥かなり
The Search
(1948年/アメリカ)
真昼の決闘
High Noon
(1952年/アメリカ)
地上より永遠に
From Here to Eternity
(1953年/アメリカ)
わが命つきるとも
A Man for All Seasons
(1966年/イギリス)
ジャッカルの日
The Day of the Jackal
(1973年/英・仏)
ジュリア
Julia
(1977年/アメリカ)
◆
「ハリウッドの良心」と称された社会派の巨匠
・
1907年
、オーストリアのウィーン生れ。両親ともユダヤ人。子供の頃からバイオリンを習い、音楽家になることを夢見ていたが、才能がないと悟って断念。弁護士を目指し、ウィーン大学の法科に入学したが、在学中、映画に魅了された。特に、『グリード』
(1924年/監督:
エリッヒ・フォン・シュトロハイム
)
、
『戦艦ポチョムキン』
(1925年/監督:
セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
)
、『ビッグ・パレード』
(1925年/監督:
キング・ヴィダー
)
、『裁かるるジャンヌ』
(1928年/監督:カール・ドライヤー)
の4作品に感銘を受けたという。
・1927年、大学卒業後、両親を説得して、パリの映画撮影技術学校に入学。約1年半、同校で学んだ後、ベルリンへ渡り、何本かの撮影に携わった。
彼と同様、後にハリウッドで活躍するロバート・シオドマクが監督、
ビリー・ワイルダー
が脚本の『日曜日の人々』
(1930年公開)
では撮影助手と助監督を務めた。
(右の写真)ビリー・ワイルダー(左)と。1993年。
・1929年、トーキーの技術を習得するためハリウッドへ。
『西部戦線異状なし』
(1930年)
にエキストラ出演した後、同郷のベルトルト・ヴィアテル監督の助監督を務めた。その後、ドキュメンタリー映画の先駆者ロバート・フラハティの助手として、中央アジアの少数民族のドキュメンタリーの製作に取り掛かったが、これは実現しなかった。
・1933年、メキシコへ渡り、漁師の生活を描いたドキュメンタリー『
Redes
』
(1936年/英題:
The Wave
)
を監督
(共同)
。
・ハリウッドへ戻り、『椿姫』
(1937年/監督:
ジョージ・キューカー
)
等の助監督を務めた後、1937年から1942年まで、MGM社で20本弱の短編映画を監督。その中の1本『
That Mothers Might Live
』
(1938年)
は、アカデミー賞の短編映画賞を受賞した。
・B級フィルム・ノワール作品『
Kid Glove Killer
』
(1942年)
で長編映画の監督としてデビューし、もう1本、低予算の『
Eyes in the Night
』
(1942年)
を撮った。
(左の写真)『
Kid Glove Killer
』
撮影時。ヴァン・ヘフリンン(左)と
『
Kid Glove Killer
』
(1942年)
マーシャ・ハント、
ヴァン・ヘフリンン
『
Eyes in the Night
』(1942年)
エドワード・アーノルド
、
アン・ハーディング
・初の高予算作品『第七の十字架』
(1944年/日本劇場未公開)
を監督。ナチスの強制収容所から脱走した7人のその後を描いた作品で、ヒューム・クローニンがアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされた。尚、ジンネマン監督の両親は、大戦中、ナチスによって殺害されている。
*
『第七の十字架』 … ヒューム・クローニンの妻
ジェシカ・タンディ
の銀幕デビュー作
『第七の十字架』
(1944年)
スペンサー・トレイシー
、ヒューム・クローニン
『第七の十字架』撮影時
スペンサー・トレイシー(右)と
・恋愛映画『
The Clock
』
(1945年)
の撮影に臨んだが、主役の
ジュディ・ガーランド
と衝突し、
ヴィンセント・ミネリ
監督と交代させられた。
その後、子役のブッチ・ジェンキンス主役の『不思議な少年』、『
Little Mister Jim
』
(1947年)
の2作品を監督。
(右の写真)ブッチ・ジェンキンスと
・『山河遥かなり』
(1948年)
を監督。戦時中、ナチスによって家族と引き離されて収容所に入れられていたため、言葉を失ってしまった少年と心優しきアメリカ兵との交流を描いた作品。アカデミー賞の監督賞、主演男優賞など4部門でノミネートされ、原案賞を受賞し、
イワン・ヤンドル
に子役賞(特別賞)をもたらした。ジンネマン監督の出世作。
『山河遥かなり』
(1948年)
モンゴメリー・クリフト
、イワン・ヤンドル
『山河遥かなり』撮影時
モンゴメリー・クリフト(左)、イワン・ヤンドルと
・フィルム・ノワール作品『暴力行為』
(1949年
)を監督。MGM社との契約下での最後の作品となった。
(左の写真)『暴力行為』
ジャネット・リー
、ヴァン・ヘフリンン
・フリーとなり、独立系の製作者
スタンリー・クレイマー
、脚本家のカール・フォアマンと組んだ『男たち』
(1950年)
を監督。戦争で下半身不随となった主人公を映画初出演の
マーロン・ブランド
が演じた。
『男たち』(1950年)
マーロン・ブランド、
テレサ・ライト
『男たち』撮影時
テレサ・ライト、マーロン・ブランド(右)と
・恋愛ドラマ『
Teresa
』
(1951年)
を監督。
ピア・アンジェリ
のハリウッド・デビュー作。
『
Teresa
』
(1951年)
ジョン・エリクソン、ピア・アンジェリ
『
Teresa
』撮影時
ピア・アンジェリと
・ロスアンゼルスの整形児童病院が資金集めの為に製作した『
Benjy
』
(1951年)
を監督。ジンネマン監督、ナレーターの
ヘンリー・フォンダ
をはじめ、映画に携わったスタッフは皆、無償で奉仕した。アカデミー賞の短編ドキュメンタリー賞を受賞した。
・スタンリー・クレイマー、カール・フォアマンと再び組んだ
『真昼の決闘』
(1952年)
は、今なお最も称賛される西部劇の1作。物語の進行時間と映画の上演時間を一致させるなど、緊張感溢れる作品に仕上げ、アカデミー賞では、作品賞、監督賞など7部門でノミネートされ、主演男優賞
(
ゲーリー・クーパー
)
など4部門で受賞した。
『真昼の決闘』(1952年)
ゲーリー・クーパー、
グレース・ケリー
『真昼の決闘』撮影時
ゲーリー・クーパー(右)と
・『
The Member of the Wedding
』
(1952年)
は、ブロードウェイで大ヒット
(1950〜1951年)
した舞台劇の映画化作品。主要な登場人物は舞台と同じ役者がキャスティングされ、銀幕デビューとなった
ジュリー・ハリス
がアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。
『
The Member of the Wedding
』
(1952年)
エセル・ウォーターズ、ジュリー・ハリス
『
The Member of the Wedding
』撮影時
ジュリー・ハリスと
・
『地上より永遠に』
(1953年)
で は、真珠湾攻撃前のハワイを舞台に、それまでタブー視されていた軍隊内部の腐敗した一面を描いた。社会の風潮に流されず、また、権力や権威におもねること なく、社会的なメッセージ色の濃い作品を撮るジンネマン監督は、いつしか「ハリウッドの良心」とも称されるようになった。
『地上より永遠に』(1953年)
モンゴメリー・クリフト、
バート・ランカスター
『地上より永遠に』撮影時。右から、ジンネマン監督、
モンゴメリー・クリフト、バート・ランカスター
・『地上より永遠に』は、アカデミー賞では12部門でノミネートされ、作品賞、監督賞など8部門で受賞。
『風と共に去りぬ』
(1939年)
に並ぶ最多受賞作品
(当時)
となった。演技賞は4部門で5人の候補者が選出され、助演男優賞
(
フランク・シナトラ
)
、助演女優賞
(
ドナ・リード
)
を受賞。「
ジンネマン監督作品に出演することがオスカーへの近道
」と評判になった。
(右の写真)アカデミー賞授賞式にて。プレゼンンターの
アイリーン・ダン
と
・『オクラホマ!』
(1955年)
を監督。ブロードウェイで大ヒット
(1943年〜)
したミュージカルを、トッド-AOシステムのワイドスクリーンで撮った。
『オクラホマ!』
(1955年)
ゴードン・マクレー、シャーリー・ジョーンズ
『オクラホマ!』撮影時
シャーリー・ジョーンズと
・『夜を逃れて』
(1957年)
を監督。こちらもブロードウェイのヒット作
(1945年〜)
で、麻薬中毒を題材とした作品。アンソニー・フランシオサが、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
『夜を逃れて』
(1957年)
エヴァ・マリー・セイント
、ドン・マレー
『夜を逃れて』撮影時
エヴァ・マリー・セイントと
・アーネスト・ヘミングウェイ原作の『老人と海』
(1958年)
の撮影に臨むも途中で降板。代わりに
ジョン・スタージェス
が監督した。
・
オードリー・ヘップバーン
主演の『尼僧物語』
(1959年)
を監督。アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞など8部門でノミネートされたが、受賞の新記録を打ち立てた
『ベン・ハー』
等に敗れ、無冠に終わった。
『尼僧物語』
(1959年)
オードリー・ヘップバーン
『尼僧物語』撮影時
オードリー・ヘップバーンと
・オーストラリアで定住地を持たずに牧羊業を営む一家を描いた『サンダウナーズ』
(1960年)
も、アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞
(
デボラ・カー
)
、助演女優賞
(グリニス・ジョーンズ)
など5部門でノミネートされた。
『サンダウナーズ』
(1960年)
デボラ・カー、ピーター・ユスティノフ、
ロバート・ミッチャム
『サンダウナーズ』
撮影時
デボラ・カー、ピーター・ユスティノフ(右)と
・スペイン内戦を題材にした『日曜日には鼠を殺せ』
(1964年)
を製作・監督。
『日曜日には鼠を殺せ』
(1964年)
アンソニー・クイン
、
グレゴリー・ペック
『日曜日には鼠を殺せ』撮影時。
グレゴリー・ペック(右)と
・イギリスで『わが命つきるとも』
(1966年)
を製作・監督。16世紀のイギリスで、国王ヘンリー8世の権力に屈せず、自己の信念を貫き通したために斬首刑に処せられたトマス・モアの生涯を描いた。
『わが命つきるとも』
(1966年)
ロバート・ショウ、
ポール・スコフィールド
『わが命つきるとも』撮影時
ポール・スコフィールド(右)と
・『わが命つきるとも』は、アカデミー賞では8部門でノミネートされ、作品賞、監督賞、主演男優賞
(ポール・スコフィールド)
など6部門で受賞。受賞は逃したものの、ロバート・ショウ
(助演男優賞)
、ウェンディ・ヒラー
(助演女優賞)
の2人もノミネートされた。
(左の写真)アカデミー賞授賞式にて。監督賞のプレゼンター、
ロザリンド・ラッセル
(左)、作品賞のプレゼンター、オードリー・ヘップバーンと。
・フランス人作家アンドレ・マルローの小説「人間の条件」の映画化に着手。3年の準備期間を経て、ピーター・フィンチ、
マックス・フォン・シドー
といったキャストも決まり、いざ撮影開始という段
(1969年)
になって、タイアップしていたMGM社の経営者が交代し、一方的に映画化が白紙撤回された。ジンネマン監督は裁判で争ったが、結局、映画化は実現 しなかった。
映画製作に際し、何よりも採算性を重視する新世代のスタジオ幹部たちの姿勢に接し、ジンネマン監督は自分の時代が終わったと感じ、第一線から退いてしまった。
・フレデリック・フォーサイス原作の『ジャッカルの日』
(1973年)
は7年ぶりの新作となった。監督を打診された際、観客が結末を予測できる映画を如何に演出するかという点に興味を持ち、引き受けたという。緊張感溢れる第一級のサスペンス映画に仕上げ、巨匠の手腕が全く衰えていないことを示した。
『ジャッカルの日』
(1973年)
エドワード・フォックス
『ジャッカルの日』撮影時
エドワード・フォックス(左)と
・女流作家
リリアン・ヘルマン
の回想録を映画化した『ジュリア』
(1977年)
は、アカデミー賞の作品賞、監督賞など10部門でノミネートされ、助演男優賞
(ジェイソン・ロバーズ)
、助演女優賞
(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)
、脚色賞の3部門で受賞。俳優にオスカーをもたらす魔法の監督ぶりも健在だった。ジェーン・フォンダ
(主演女優)
、マクシミリアン・シェル
(助演男優)
もノミネートされていた。
『ジュリア』
(1977年)
ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジェーン・フォンダ
『ジュリア』撮影時
ヴァネッサ・レッドグレイヴ(右)、ジェーン・フォンダと
・アルプス山脈を舞台に複雑な男女の関係を描いた『氷壁の女』
(1982年)
を製作・監督。批評家から酷評され、興行的にも失敗作となり、最後の作品となった。
『氷壁の女』
(1982年)
ショーン・コネリー
、ベッツィ・ブラントリー
『氷壁の女』撮影時
ショーン・コネリー(左) と
・1992年、自伝を出版。
・私生活では、『永遠に愛せよ』
(1935年/監督:
ヘンリー・ハサウェイ
)
の撮影に携わっていた時に出会った衣装係の女性と1936年に結婚。同年、アメリカの市民権を取得した。1940年に授かった長男のティムは映画製作者となり、『ロング・ライダーズ』
(1980年)
、『バトルランナー』
(1987年)
、『D.N.A./ドクター・モローの島』
(1996年)
等を製作した。
・
1997年
、
89歳
で他界。
HOME