20世紀・シネマ・パラダイス
思い出の子役スター (出演時15歳以下)
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クロード・ジャーマン・ジュニア Claude Jarman Jr. (アメリカ) |
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『子鹿物語』(1946年):出演時12歳 |
『子鹿物語』(1946年/監督:クラレンス・ブラウン)で銀幕デビューし、アカデミー賞の特別賞を受賞。その後、1956年まで合計11本の映画に出演した。第70回(1998年)、第75回(2003年)アカデミー賞授賞式に過去の受賞者として登場した。 |
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リナルド・スモルドーニ Rinaldo Smordoni (イタリア)
フランコ・インテルレンギ Franco Interlenghi (イタリア)
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『靴みがき』(1946年)
リナルド・スモルドーニ (左):出演時13歳
フランコ・インテルレンギ (右):出演時15歳
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・リナルド・スモルドーニ … 『靴みがき』(1946年/監督:ヴィットリオ・デ・シーカ)でデビュー。その後、2本ほど端役で出演したが、成人後は俳優業とは別の道に進んだ。子役に焦点を当てたイタリアのドキュメンタリー映画『Protagonisti per sempre』(2014年)に証言者の1人として出演した。2022年、89歳で他界。 |
・フランコ・インテルレンギ … 『靴みがき』でデビュー。成人後も俳優を続け、『青春群像』(1953年/監督:フェデリコ・フェリーニ)等に出演。助演や脇役クラスながらも、映画、舞台、TVで息長く活躍した。2015年、83歳で他界。
(右の写真)『可愛い悪魔』(1958年/フランス)ブリジット・バルドーと |
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ディーン・ストックウェル Dean Stockwell (アメリカ) |
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グリア・ガースン、グレゴリー・ペック主演の『愛の決断』(1945年)で銀幕デビュー。『紳士協定』でゴールデン・グローブ賞の特別賞を受賞し、子役スターとしての地位を確立。『緑色の髪の少年』(1948年)等、数多くの作品に出演した。 |
『強迫/ロープ殺人事件』(1959年)、『夜への長い旅路』(1962年)で2度カンヌ国際映画祭の主演男優賞を受賞。『愛されちゃって、マフィア』(1988年)でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、受賞は逃したが、同作と『タッカー』(1988年)での演技により、ニューヨーク映画批評家協会賞の助演男優賞を受賞した。2021年、85歳で他界。 |
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ナタリー・ウッド Natalie Wood (アメリカ) |
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ボビー・ヘンリー Bobby Henry (イギリス)
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『落ちた偶像』(1948年):出演時7歳 |
著述家だった母親の本に載っていた彼の写真が、製作者アレクサンダー・コルダの目に留まり、『落ちた偶像』 に出演。もう1作『The Wonde Kid』(1951年)にも出演した。オックスフォード大学を卒業後にアメリカへ渡り、税務コンサルタントになった。 |
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エドモンド・メシュケ Edmund Moeschke (ドイツ)
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| 『ドイツ零年』(1948年):出演時11歳
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サーカス団一家の子供で、サーカスを観に来たロベルト・ロッセリーニ監督にスカウトされて『ドイツ零年』に出演。1946年に亡くなったロッセリーニ監督の息子によく似ていたからだったという。映画出演は『ドイツ零年』だけで、撮影後はサーカス団に戻った。
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エンツォ・スタヨーラ Enzo Staiola (イタリア) |
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ヴィットリオ・デ・シーカ監督にスカウトされて、『自転車泥棒』に出演。その後、ハリウッド映画『裸足の伯爵夫人』(1954年)等、10数本の映画に出演。成人後は数学の教師になった。
(右の写真)『I'll Get You fot This』(1951年/米)ジョージ・ラフト(右)と
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イワン・ヤンドル Ivan Jandl (チェコスロバキア)
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| 『山河遥かなり』(1948年):出演時10歳
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チェコスロバキアの映画『Varuj...!』(1946年)でデビュー。2作目の『山河遥かなり』(1948年)で、アカデミー賞の特別賞(子役賞)、ゴールデン・グローブ賞の特別賞を受賞した。
(右の写真)『山河遥かなり』モンゴメリー・クリフトと |
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チェコスロバキア政府がアメリカへの訪問を許可しなかったため、授賞式には参加できなかった(映画はドイツとスイスで撮影された)。成人後はラジオの仕事に従事していた。1987年、50歳で他界。
(左の写真)オスカー像、ゴールデン・グローブ賞のトロフィーと |
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ティーナ・アピチェッラ Tina Apicella (イタリア) |
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| 『ベリッシマ』(1951年):出演時5歳
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5歳の時に『ベリッシマ』(1951年/監督:ルキノ・ヴィスコンティ)1作品だけに出演。主演女優のアンナ・マニャーニはティーナのことを大変気に入り、養子縁組することも考えたとか。
(右の写真)アンナ・マニャーニと
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ブリジット・フォッセー Brigitte Fossey (フランス)
ジョルジュ・プージュリー Georges Poujouly (フランス)
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『禁じられた遊び』(1952年)
ブリジット・フォッセー:出演時5歳
ジョルジュ・プージュリー:出演時11歳
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・ブリジット・フォッセー … 1000人近くの中から選ばれて『禁じられた遊び』に出演。名演技で世界中の観客の涙を誘った。映画の冒頭で死ぬ両親は彼女の本当の両親が演じた。
ジーン・ケリー監督・主演の『ハッピー・ロード』(1957年/仏・米)出演後に引退。学業に専念した後、『さすらいの青春』(1967年)で10年ぶりに銀幕復帰。以後、アラン・ドロン主演の『さらば友よ』(1968年)、ソフィー・マルソー主演の『ラ・ブーム』(1980年)等に出演。日本映画『妖精の詩』(1971年/監督:羽仁進)にも出演した。
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| ・ジョルジュ・プージュリー … 『禁じられた遊び』で銀幕デビュー。その後も俳優を続け、『死刑台のエレベーター』(1957年/監督:ルイ・マル)等に出演。1960年代以降はTVを中心に活動していたが、2000年に60歳で他界した。 |
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ブランドン・デ・ワイルド Brandon De Wild (アメリカ)
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7歳の時にブロードウェイ劇「The Member of the Wedding」(1950年〜)でデビュー。492回公演の大ヒットとなり、同作の映画化作品(1952年/監督:フレッド・ジンネマン監督 )で銀幕デビューも果たした。
2作目の映画『シェーン』で、流れ者のガンマンを慕う開拓農民の息子を好演。アカデミー賞助演男優賞にノミネートもされた。
その後も映画、TV、舞台で活躍していたが、1972年、交通事故により30歳の若さで他界した。 |
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『The Member of the Wedding』(1952年)
エセル・ウォーターズ(中央)、ジュリー・ハリス(右)と |
『ハッド』(1963年)
ポール・ニューマン(左)と |
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