20世紀・シネマ・パラダ
イス
ショーン・コネリー
Sean Connery
1930- 2020 (イギリス )
◆ 代表作
007 ロシアより愛をこめて
From Russia with Love
(1963年/英・米)
王になろうとした男
The Man Who Would
Be King
(1975年/米・英)
ロビンとマリアン
Robin and Marian
(1976年/英・米)
薔薇の名前
Le Nom de la Rose
(1986年/仏・伊・西独)
アンタッチャブル
The Untouchables
(1987年/アメリカ)
インディ・ジョーンズ
/ 最後の聖戦
Indiana Jones and the Last
Crusade
(1989年/アメリカ)
レッド・オクトーバーを追え!
The Hunt for Red October
(1990年/アメリカ)
ザ・ロック
The Rock
(1996年/アメリカ)
◆ 初代ジェームズ・ボンド、スコットランドの至宝
・1930年 、スコットランドのエディンバラ生れ。本名は Thomas Sean Connery 。
父親は工場の労働者・トラックの運転手で、母親は掃除・洗濯婦だった。
家庭が貧しかったこともあり、初等教育 (12歳まで) 終了後、協同組合の牛乳配達員として働き始めた。
14歳の時に女性兵士と初体験。本人曰く、「Lost Virginity 」 した。
(右の写真) 子供の頃のショーン・コネリー
・16歳の時にイギリス海軍に入隊したが、十二指腸潰瘍を患い、3年で除隊。海軍在籍時、右腕に 「スコットランド フォーエヴァー」、「パパとママ」 と刺青した。
除隊後、トラックの運転手、海水浴場のライフガード等々、種々な仕事に就いた。
18歳の時からボディビルを始め、ミスター・ユニバースのコンテストで第3位になったこともあったという。筋肉隆々の肉体美を活かし、エディンバラの芸術学校で絵画のモデルの仕事もした。
(左の写真) 海軍時代のショーン・コネリー
・21歳の時に劇場で裏方として働き始め、役者を志すようになった。舞台出演のオーディションを受け、小さな役から舞台に出演するようになった。
アマチュアのサッカー選手としても活躍し、23歳の時に、名門マンチェスター・ユナイテッドのマネージャーからスカウトされた。好待遇だったが、プロのサッカー選手として活躍できるのは30歳位までなので、役者になることを選択したという。
(右の写真) ミスター・ユニバースのコンテスト時。ショーン・コネリー(中央)
・エロール・フリン 主演の 『Lilacs in the Spring 』 (1954年/英) にエキストラで出演し、銀幕デビュー。その後、数本のTVドラマに出演し、劇場用映画 『No Road Back 』 (1957年/英) で初めて銀幕に名前がクレジットされた。
『Another Time, Another Place 』 (1958年/英) では、ハリウッドの人気女優ラナ・ターナー と共演。撮影中の武勇伝も語り継がれている (こちら ) 。
(左の写真) 『Another Time, Another Place 』 撮影時。ラナ・ターナーと
・オールスター・キャストの大作 『史上最大の作戦』 (1962年) にも出演。日本ではまだ無名だったため、パンフレットには 「シーン・コネリー」 と表記されていた。
(右の写真) 『史上最大の作戦』 ショーン・コネリー(右)
◆ 007 ジェームズ・ボンド時代
シリーズ第1作 『007 ドクター・ノオ』 (1962年) の撮影中、テレンス・ヤング監督から、ジェントルマンとしての立ち振る舞いや食事の仕方などを徹底的にレクチャーされたという。
‟Bond. James Bond ” は、AFI (アメリカ映画協会)が2005年に選定した 「アメリカ映画名セリフ・ベスト100」 で第22位に。
(左の写真) 『007 ドクター・ノオ』
・1962年、オーストラリア出身の女優ダイアン・シレントと結婚。翌63年、後に俳優となる長男のジェイソンを授かったが、73年に離婚した。
* ダイアン・シレント … アルバート・フィニー 主演の 『トム・ジョーンズの華麗な冒険』 (1963年) でアカデミー賞の助演女優賞にノミネートされた。
(右の写真) 最初の妻ダイアン・シレントと
・‟007シリーズ” の最高傑作との声も多い 『007 ロシアより愛をこめて』 (1963年/監督:テレンス・ヤング) が大ヒット。アメリカでは1964年に公開され、翌65年、人気のバロメーターの1つ、 ドル箱
(マネー・メイキング)スター・ベストテンに第1位で初登場。以後、66年(第2位)、67年(第5位)、71年(第9位)、89年(第9位)、90年(第8位)、96年(第7位)と、合計7回ランク入りした。
(左の写真) 『007 ロシアより愛をこめて』 ダニエラ・ビアンキと
『マーニー』 (1964年) ティッピ・ヘドレン と
『007 ゴールドフィンガー』 (1964年/監督:ガイ・ハミルトン)
『丘』 (1965年)
『007 サンダーボール作戦』 (1965年/監督:テレンス・ヤング)
・スコットランドで左官をしていた8歳年下の実弟ニール・コネリーが、イタリアのスパイ・アクシション映画 『ドクター・コネリー キッド・ブラザー作戦』 (1967年) で銀幕デビュー。
『ロシアより愛をこめて』 のダニエラ・ビアンキがヒロインを演じ、‟007シリーズ” の ‟M” 役のバーナード・リー、‟マネーペニー” 役のロイス・マクスウェル等も出演した。
‟007シリーズ” のファンなら必見?必笑?
(右の写真) 『ドクター・コネリー キッド・ブラザー作戦』
ニール・コネリー と ダニエラ・ビアンキ
・‟007シリーズ” の第5作 『007は二度死ぬ』 (1967年/監督:ルイス・ギルバート) を最後にジェームズ・ボンド役から退いたが、第7作 『007 ダイヤモンドは永遠に』 (1971年/監督:ガイ・ハミルトン) で復帰。出演料 (基本給)は、『ドクター・ノオ』 の時の60倍以上だった。その出演料は、スコットランドの国際教育基金に寄付したという。
* 出演料 … 『ドクター・ノオ』 : 基本給20,000ドル+歩合給=125,000ドル … 日本円(当時)で4,500万円
『ダイヤモンドは永遠に』 : 基本給1,250,000ドル+歩合給=6,725,000ドル … 日本円(当時)で21億1,165万円
『007は二度死ぬ』 (1967年) 丹波哲郎(左)と
『007 ダイヤモンドは永遠に』 (1971年)
◆ 脱ジェームズ・ボンド時代
・ジェームズ・ボンドのイメージがあまりにも強く、オファーがなかったのか? 『未来惑星ザルドス』 (1974年) には、僅か20,000ドルのギャラで出演したという。しかし、名監督たちの良作に恵まれ、‟ジェームズ・ボンド” から脱皮していった。
『未来惑星ザルドス』 (1974年)
シャーロット・ランプリングと
『オリエント急行殺人事件』 (1974年/監督:シドニー・ルメット)ヴァネッサ・レッドグレイヴと
『風とライオン』 (1975年/監督:ジョン・ミリアス)
キャンディス・バーゲンと
『王になろうとした男』 (1975年 /監督:ジョン・ヒューストン )
マイケル・ケイン(左)と
・1975年、フランス人の画家ミシュリーヌ・ルクブルンと再婚。
(左の写真) 2番目の妻ミシュリーヌ・ルクブルンと
キャンパスに描かれているのはショーン・コネリー。
・若い頃からAGA (男性型脱毛症) で、‟007シリーズ” の時はカツラを着用していたとか。年齢を重ねるにつれて渋みを増し、いつしか 「ハゲでもかっこいい男」 の代表的存在にもなった。
・『ネバーーセイ・ネバーアゲイン』 (1983年/監督:アーヴィン・カーシュナー) で12年ぶりにジェームズ・ボンドを演じた。正規の ‟007シリーズ” ではないものの、「ジェームズ・ボンドはやっぱりショーン・コネリー 」 との声も多く、往年のフォンを歓喜させた。
『ネバーーセイ・ネバーアゲイン』 (1983年)
『ハイランダー 悪魔の戦士』 (1986年/監督:ラッセル・マルケイ)
クリストファー・ランバート(右)と
・『薔薇の名前』 (1986年/監督:ジャン=ジャック・アノー) で英アカデミー賞の主演男優賞を受賞。『アンタッチャブル』 (1987年/監督:ブライアン・デ・パルマ) で米アカデミー賞の助演男優賞を受賞。スコットランド出身の俳優で初めてオスカー像を獲得した。
『薔薇の名前』 (1986年) クリスチャン・スレーター(右)と
『アンタッチャブル』 (1987年) ケビン・コスナー(右)と
アカデミー賞授賞式。プレゼンターはニコラス・ケイジとシェール。
VIDEO
・その後も、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』 (1989年/監督:スティーヴン・スピルバーグ) 、 『レッド・オクトーバーを追え!』 (1990年/監督:ジョン・マクティアナン) 等の大ヒット作品に出演。
『インディ・ジョーンズ / 最後の聖戦』 (1989年)
ハリソン・フォード(右)と
『レッド・オクトーバーを追え!』 (1990年)
・『ザ・ロック』 (1996年/監督:マイケル・ベイ) 、『小説家を見つけたら』 (2000年/監督:ガス・ヴァン・サント) 、最後の出演作 『リーグ・オブ・レジェンド / 時空を超えた戦い』 (2003年) 等では製作総指揮も務めた。
『ザ・ロック』 (1996年)
『リーグ・オブ・レジェンド / 時空を超えた戦い』 (2003年)
・1996年、ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞を受賞。
・2000年、ナイト爵を授かり、‟サー” の称号を得た。
・2006年、AFI (アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞。授賞式 (ホストはハリソン・フォードが務めた) で俳優業からの引退を表明した。