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映画界 事件&スキャンダルの歴史

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1957年
タブーに挑み、脅迫されたジョーン・フォンテイン

 映画『日のあたる島』が物議を醸した。タブー視されていた白人と黒人のラブ・シーンが描写されていたからだ。
 
役に挑んだのはジョーン・フォンテインとハリー・ベラフォンテ。愛を語って抱擁するシーンがあるだけだったが、人種差別者たちが黙っていなかった。
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 ジョーン・フォンテインには嫌がらせの手紙が何通も届いた。「お前は黒人相手に仕事をしなければならないほど金に困っているのか」。手紙の多くに小銭が同封してあったという。
 通報を受けたFBIが調べたところ、手紙の多くは文面がほとんど同じものであり、白人至上主義を唱えるKKK団の仕業だったらしい…。
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 * ハリー・ベラフォンテ … 「バナナ・ボート」(1956年) 、「ダニー・ボーイ」等をヒットさせた歌手として有名。1985年には、アフリカの飢餓救済ため‟USAフォー・アフリカ”の結成を提唱。「ウィ・アー・ザ・ワールド」が大ヒットした。


1958年
風雲児マイク・トッドが飛行機事故死

 3月22日、映画製作者でエリザベス・テイラーの夫だったマイク・トッドが飛行機事故で亡くなった。

 貧しい家庭に生れ、高校も中退という境遇ながら、舞台の興行主として成功を収めると、鳴り物入りで映画界に参入した。
 ワイドスクリーンの一方式を開発し、そのお披露目のドキュメンタリー映画『これがシネラマだ』(1952年)を製作。次に、シネラマの欠点を改良した「トッドAO方式」を開発すると、オールスター・キャストの大作『八十日間世界一周』(1956年)を製作し、大ヒットさせた。
 (右の写真)『八十日間世界一周』撮影時。左から、マイク・トッド、カンティンフラスデヴィッド・ニーヴン
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Mike_Todd-2  1957年2月、世界一の美女と謳われていたエリザベス・テイラーと結婚(共に3度目)
 翌3月に開催されたアカデミー賞で、『八十日間世界一周』が作品賞を受賞。ハリウッドの風雲児、時の人となった。
 (左の写真)アカデミー賞授賞式にて。エリザベス・テイラーと

 1957年8月、エリザベス・テイラーとの間で娘を授かった(できちゃった婚?)
 

 1958年3月22日。自家用機がニューメキシコ州で墜落。吹雪のためエンジンが故障したとされている。
 搭乗者は、トッドの他にパイロット2人と伝記作家の合計4人。エリザベス・テイラーは風邪をひいたため搭乗を見合わせていた。また、カーク・ダグラスも搭乗を見合わせ、難を逃れたという。
 
自家用機には、エリザベス・テイラーの愛称‟LIZ(リズ)”の文字がペイントされていた。
 (右の写真)自家用機‟The LIZ”の前で。エリザベス・テイラーと
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1958年
ラナ・ターナーの娘が母親の愛人を刺殺

 人気女優ラナ・ターナーの愛人が、彼女の娘に刺殺される事件が発生。一大スキャンダルとなった。

 ラナ・ターナーは8回も結婚・離婚した他、多くの男性と浮名を流し、恋多き女性としても有名だった。自伝によれば、生涯で4回身籠り、無事に出産したのは1回。他の3回は中絶・死産しているが、4回とも父親が異なり、その1人は未婚のタイロン・パワーだった。

 1人娘のシェリルは、2番目の夫ステファン・クレインとの間で授かり、1943年7月に出産している。
 (右の写真)ラナ・ターナー、シェリル、ステファン・クレイン
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 ラナの娘シェリルに殺されたのは、イタリア系アメリカ人のジョニー・ストンパナート。ロスアンゼルスのマフィアのボス、ミッキー・コーエンの用心棒だった札付きの悪人だ。
 (左の写真)ジョニー・ストンパナート

 ラナがジョニーに出会ったのは1957年。人気に陰りが見え始め、長年在籍していたMGM社から契約を打ち切られ、4番目の夫と離婚した時期だった。

 ジョニーの手帳には裕福な女性たちの住所や電話番号が記載されており、その中にはジューン・アリソン、アニタ・エクバーグ、ザ・ザ・ガボール等の名前も載っていたという。ジョニーは金づるとしてラナにターゲットを定めた。
 (右の写真)ラナ・ターナー と ジョニー・ストンパナート
 
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Johnny_Stompanato-3  ラナが『青春物語』(1957年/20世紀FOX社)の撮影に入った頃、頻繁に花束が届くようになった。贈り主は「ジョン・スティール」(ジョニーの偽名)。そして、電話がかかって来た。なぜ番号を知っているのか不思議だったが、さして気にも留めず、気軽に会うことを約束した。ジョニーはプレゼント攻勢でラナの歓心を買うことに成功し、2人は恋人となった。
 (左の写真)ラナ・ターナー と ジョニー・ストンパナート

 ラナは、映画『Another Time, Another Place(1958年)の撮影の為、イギリスへ飛んだ。残されたジョニーに不安がよぎった。ラナは恋多き女性だ。せっかくの金づるを他の男に寝取られるかもしれない。ジョニーもイギリスへ飛んだ。撮影現場へ行ってみると、案の定、ラナが見知らぬ顔の年若い男優といちゃついていた。ジョ ニーはその男優に拳銃を突きつけ、ラナにちょっかいを出すなと脅した。しかし、相手の男優は少しも動じず、拳銃を掴むとそのままジョニーの手首をね じってやり込めた。後の‟ジェームズ・ボンド”、ショーン・コネリーである。ジョニーはアメリカに強制帰国させられた。尚、『Another Time, Another Place 』は、殺人事件発生後に急ピッチで編集され、当初の予定より4ヶ月も早い1958年5月に公開された。 
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(上の画像)右から、シェリル、ジョニー・ストンパナート、ラナ・ターナー

 ジョニーの正体を知ったラナは別れ話を切り出したが、この手の男の常套手段で脅された。「お前が眠っている間にヌード写真を撮った。そいつをバラ撒くぞ 」。ジョニーは事あるごとに暴力を振るうようになった。

 4月4日。ビバリーヒルズのラナの自宅の寝室で、ラナとジョニーは激しく口論し始め、ジョニーが暴力を振るいだした。
 「ママが殺されてしまう」。娘のシェリル(当時14歳)はキッチンでナイフを手に取ると、寝室に向い、ジョニーの腹にナイフを突き刺した。
 (右の写真)ジョニー・ストンパナートの死体
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 ジョニーの葬儀はマフィアのボス、ミッキー・コーエンが取り仕切った。極めて安物の棺が用意され、ラナがジョニーに書いたラブ・レターがタブロイド紙に売り渡された。
 (左の写真)ミッキー・コーエン(手前左)とジョニー・ストンパナート


Cheryl Crane
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娘のシャリル・クレイン(左)
左から、シェリルの父親ステファン・クレイン、
ラナ・ターナー、ラナの母親


 4月12日、裁判は全米の注目の的となり、100人以上のマスコミ関係者が集まった。
 裁判は4時間に及び、その内の1時間はラナの証言だったが、陪審員の審理は25分で評決された。正当防衛が認められ、シャリルは無罪放免となった。
 (右の写真)法廷でのラナ・ターナー。男性が手にしているのは凶器のナイフ
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法廷でのラナ・ターナー



Cheryl_Crane  娘のシェリルは、まだ10代前半で、義理の父親(ラナの4人目の夫)からレイプされるという悲惨な目にも遭っている。
 ジョニーの事件により精神的なダメージを受け、治療所に入れられたこともあった(脱走したらしい)
 このような経験が影響したのか、男性なしではいられなかった母親とは対照的に同性愛者になった。
 (左の写真)ラナ・ターナー(左)とシェリル

 高校卒業後、一時期モデルをしていたが、実父のステファンが経営するレストランで働くようになった。
 1988年、母親の恋愛遍歴やハリウッドでの生活に関する著作物を出版。
 2014年、40年以上パートナーだった女性とめでたく結婚した。
 (右の写真)ラナ・ターナー(右)とシェリル
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