20世紀・シネマ・パラダ イス

Megaphonebar
King Vidor

キング・ ヴィダー

King Vidor

1894-1982 (アメリカ)

Megaphonrbar

   代表作

The_Big_Parade-3
 ビッグ・パレード
 The Big Parade
  
(1925年/アメリカ)
The_Crowd
 群衆
 The Crowd
  (1928年/アメリカ)
Hallelujah!
 ハレルヤ
 Hallelujah!
  (1929年/アメリカ)
The Champ
 チャンプ
 The Champ
 (1931年/アメリカ)
Cynara
 シナラ
 Cynara
 (1932年/アメリカ)
Stella_Dallas-3
 ステラ・ダラス
 Stella Dallas
  (1937年/アメリカ)
The Citadel-2
 城砦
 The Citadel
  (1938年/イギリス)
Duel in the Sun
 白昼の決闘
 Duel in the Sun
  (1946年/アメリカ)

    心に残る名作の数々 ハリウッドの名匠

 ・1894年、テキサス州ガルベストン生れ。1900年、6歳の時に、1万 人近くもの死傷者を出したハリケーン・ガルベストンに遭遇した。子供の頃から映画に魅了されていたが、友人のカメラで初めて撮った 『Hurricane in Galveston(1913年) が近隣の映画館で上映され、本格的に映画製作に取り組むようになった。

 ・1915年、ハリウッドへ。事務の仕事をしながら脚本を執筆していたが、3年後にチャンスが訪れた。判事のウィリス・ブラウンなる人物が設 立した 「Boy City Film」 社で16本の短編映画を監督した。

 ・知人等から資金援助を受けて、自ら脚本を執筆した初の長編 『故郷への道』 (1919年) を監督。同作は評判となり、最終的に全米に配給された。
 名を上げたヴィダー監督は配給会社と契約し、フリーランスの監督として活動。貧しい老人と孤児の交流を描いた人情劇 『涙の舟唄』 (1920年) 等をヒットさせた。
  (右の写真) 『涙の舟唄』
The_Jack-Knife_Man

 ・1922年、ゴールドウィン社 (24年、合併によりMGM社に) に入社。戦争映画 『ビッグ・パレード』 (1925年) が記録的な大ヒットに。サイレント期に最も成功した作品の1つとされている。
The_Big_Parade-4
La Boheme
『ビッグ・パレード』  撮影時。
ルネ・アドレー(左)、ジョン・ギルバート(右)と

『ラ・ボエーム』 (1926年) 撮影時。右から、 リリアン・ギッシュ
アーヴィング・G・タルバーグ、ヴィダー監督


 ・『ビッグ・パレード』 の大成功により、MGM社で最重要監督の1人となったヴィダー監督は、興行的なリスクを負った冒険が出来る立場になったと言われている。
The Crowd-2  ヴィダー監督の意欲作の1つが、自ら脚本にも携わった 『群衆』 (1928年)
 平凡な市民の半生を、あえて無名の俳優を起用して描いた。
 第1回アカデミー賞で芸術作品賞 、監督賞にノミネート。
 ヴィダー監督の最高傑作との声も多い。
  * アカデミー賞芸術作品賞 … 第1回のみにあった賞で、受賞作は 『サンライズ』
  (左の写真) 『群衆』 主演のジェームス・マレー

 ・自身初のトーキー作品は、当時としては画期的なオール黒人キャストのミュージカル 『ハレルヤ』 (1929年)
 メジャー会社では初の、これも興行的なリスクを負った試みで、難色を示した会社を説得する為に、ヴィダー監督は給料の返上を申し出たという。
 南部では上演反対運動が起こり、日本でもわずか1日で上映が打ち切りとなってしまったが、作品の評価は高く、ヴィダー監督は2度目のアカデミー賞監督賞候補に。
  (右の写真) 左から、ヴィダー監督、ニーナ・メイ・マッキニー、ダニエル・L・ヘインズ
Hallelujah!-2

 ・『群衆』 のようなメッセージ色の強い社会派作品だけでなく、商業的娯楽作品も手掛け、成功を収めた。
 3度目のアカデミー賞監督賞候補となった、泣ける映画の定番 『チャンプ』 (1931年)や、同じ くハンカチが必要なメロドラマの名作 『シナラ』 (1932年) 等をヒットさせた。
  * 『チャンプ』 … 1979年、フランコ・ゼフィレッリ監督、ジョン・ボイド主演でリメイクされた。
The Champ-2 Cynara-2
『チャンプ』
『シナラ』
ケイ・フランシス (左) とロナルド・コールマン

Our Daily Bread  自給自足する農民たちを描いた 『麦秋』 (1934 年)は、社会主義的な内容のため、さすがにMGM社ではNGとされ、私財を投じて自主製作した。
 脚本も自分で執筆し、主人公の名前を 『群衆』 のそれと同じにした。
 そして、ヴィダー監督に共感したチャップリンが、ユナイテッド・アーチスツ社 から配給した。
  (左の写真) 『麦秋』

 ・ヴィダー監督は3度結婚したが、3人とも仕事上のパートナーでもあった。
 ・女優のフローレンス・ヴィダー (1915〜24 年)
 
地元テキサスで結婚し、共にハリウッドへ。ハリウッドでは彼女の方が先に成功し、フリーランスの頃のヴィダー監督作品の多くに出演もし た。
 離婚後も姓名を変えずに女優業を続け、『結婚哲学』
(1924年/監督:エルンスト・ルビッチ 等に出演した。
Florence Vidor
Eleanor_Boardman-2
 ・女優のエレノア・ボードマン (1926〜31年)
 
ヴィダー監督の 『剣侠時代』 (1926年)、『群衆』 (1928年) でヒロインを務めた。
 ・脚本家のエリザベス・ヒル (1932〜72年彼女 の死)
 
ヴィダー監督の 『麦秋』 (1934年)、『テキサス決死隊』 (1936年)、『城砦』 (1938年) 等の脚本を執筆し た。
  
(右の写真) 左から、エリザベス・ヒル、チャップリン、
   ポーレット・ゴダード、ヴィダー監督

Chaplin Vidor

 ・『結婚の夜』 (1935年) で、ヴェネツィア国際映画祭の監督賞を受賞。
 ヘンリー・キング監督作品 (1925年) のリメイク 『ステラ・ダラス』 (1937年) も、前作に負けず劣らずの名作に仕上げた。
The Wedding Night-2 Stella Dallas-2
 『結婚の夜』 ゲーリー・クーパーとアンナ・ステン 『ステラ・ダラス』 バーバラ・スタンウィック

 ・1936〜38年、映画監督組合 (現在の全米監督協会) の初代会長に就任。

The Citadel
 ・イギリスに渡って撮った 『城砦』 (1938年) では、医学界の腐敗にメスを入れ、4度目のアカデミー賞監督賞候補に。
 (左の写真) 『城砦』 撮影時。 ロバート・ドーナッ ト(中央)。ラルフ・リチャードソン(右)と


 ・友人のヴィクター・フレ ミング監督『オズの魔法使』 (1939年) 完成目前で、『風と共に去りぬ』 (1939年) の撮影に引き抜かれた際、『オズの魔法使』 の残りを撮り、完成させた。

 ・大作 『An American Romance(1944年) が興行的 に失敗作となり、MGM社を退社。

 ・戦後も、超大作西部劇 『白昼の決闘』 (1946 年)、アイン・ランドのベスト・セラー 「水源」 を映画化した 『摩天楼』 (1949年)、 李香蘭こと山口淑子のハリウッド・デビュー作 『東は東』 (1952年)、イタリア・アメリカ合作の大 作 『戦争と平和』 (1956年)などを監督。『戦争と平和』 で5度目のアカデミー賞監督賞候補となった。
Fountainhead War and Peace
『摩天楼』 撮影時。
    左から、ヴィダー監督、アイン・ラン ド、ゲーリー・クーパー
『戦争と平和』 撮影時。
オードリー・ヘップバーン


 ・1979年、アカデミー賞名誉賞を受賞。受賞理由は、「映画創造者、革新者としての比類なき功績」。
youtube
 アカデミー賞授賞式。プレゼンターはオードリー・ヘッ プバーン。


 ・1982年、黒澤明監督等と一緒に、ヴェネツィア国際映画祭の栄誉金獅子賞を受賞。

 ・劇場用映画は 『ソロモンとシバの女王』 (1959年) が最後となったが、その後も短編ドキュメンタリー映画を数本監督。遺作となった 『The Metaphor (1980年) を撮った時には、最長 (67年) のキャリアを持つ映画監督としてギネス・ブックに公認 (当時) された。
  (右の写真) アカデミー賞授賞式で。オードリー・ヘップバーンと

 ・1982年88歳で他界。
Vidor-Oscar-2
 
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