20世紀・シネマ・パラダ イス

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Charles Chaplin

チャール ズ・チャップリン

Charles Chaplin

1889-1977 (イギリス)

 
愛称チャーリー(Charlie)
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     代表作

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キッド
The Kid
 (1921年/アメリカ)
黄金狂時代
The Gold Rush
 (1925年/アメリカ)
The Circus Ciy Lights
サーカス
The Circus
(1928年/アメリカ)
街の灯
City Lights
(1931年/アメリカ)
Modern_Times
The Great Dictator
モ ダン・タイムス
Modern Times
(1936年/アメリカ)
チャップリンの独 裁者
The Great Dictator
(1940年/アメリカ)
Monsieur_Verdoux
Limelight
殺人狂時代
Monsieur Verdoux
(1947年/アメリカ)
ライムライト
Limelight
(1952年/アメリカ)


    「世界の喜劇王」 映画界最大のスーパースター

 身なりは浮浪者でも心優しき英国紳士。“放浪紳士チャーリー”として、今なお世界中で愛さ れている「世界の喜劇王」。アメリカでは敬愛を込めて‟The Little Tramp (小さな浮浪者)”と呼ばれ、酔っ払いの役も多かった為、日本では ‟アルコール先生”とも呼ばれていた。

 ・1889年、ロンドン生れ。両親はミュージック・ホールの芸人・歌手で、 4歳年上の兄シドニーは父親が異なる。
 1歳の時に両親が別居。以後、母親のハンナに育てられた。
 5歳の時に、病気で声が出なくなった母親の代わりに初めて舞台に立った。その後、母親は発狂し、精神病施設への入退院を繰り返すことに。

 ・兄と共に孤児院等を転々としながらの貧しく苦しい生活のなか、芸人として舞台に立ち、家 計を支えてもいた。
 (右の写真)子供の頃のチャップリン
Charles_Chaplin-3

Chaplin-1910  ・1908年、名門カノー劇団に入団。1910年には、カノー劇団のアメリカ巡業にも参加した。
 (左の写真)カノー劇団。救命浮き輪の中がチャップリン。

 ・1913年、カノー劇団の人気役者として2度目のアメリカ巡業へ。映画製作者のマック・セネットにスカウトされ、キーストン・ピクチャー ズ・スタジオと契約。

 ・1914年、『成功争い』で銀幕デビュー。時にチャップリン25歳。詐欺師の役だった。
 (右の写真) 『成功争い』  一番右がチャップリン
Making_a_Living

Kid_Auto_Races_at_Venice
 ・2作目『ヴェニスの子供自動車競走』で、お馴染みとなる‟小さな浮浪者”スタイルを初披露。しかし、このスタイルがすっかり定着したわけではなく、女装して出演したこともあった。
 (左の写真)『ヴェニスの子供自動車競走』
 フランク・D・ウィリアムズ(左)、ヘンリー・レアマン(右)と 

 ・キーストン社では30本以上の作品に出演。人気スターとなったが、2年目の契約条件で折 り合いがつかず、退社することに。

 ・1915年、エッサネイ・スタジオと契約。同社での2作目 『アルコール夜通し転宅』で、名パートナーとなるエドナ・パーヴィアンスがデ ビュー。
 キーストン社では他人が監督した作品にも出演したが、エッサネイ社での14作品は全てチャップリンが監督した。
 (右の写真)『チャップリンの拳闘』 エドナ・パーヴィアンスと
Champion

The_Immigrant
 ・1916年、ミューチュアル社へ移籍。2年間で12作品を発表。
 兄のシドニーがマネージャーとなり、日本人の高野虎市を運転手(のちに秘書)とし て雇った。
 (左の写真)『チャップリンの移民』(1917年)撮影時。
 エドナ・パーヴィアンス、兄のシドニーと。


 ・1918年、ハリウッドに自身の撮影所を設立し、ファースト・ナショナル社と 契約。傑作『犬の生活』を発表。
 戦時公債募集ツアーに参加し、その後、プロパガンダ映画『公債』、『担え銃』を発表。
 女優のミルドレッド・ハリスと最初の結婚。(1920年に離婚)
 (右の写真)『犬の生活』
A_Dog's_Life

United Artists  ・1919年、『サニーサイド』、『一日の行楽』を発表。
 ダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォードD・W・グリフィスと共同で、配給会社ユナイテッド・アーチスツ社を 設立。
 (左の写真)左から、ピックフォード、グリフィス、チャップリン、フェアバンクス

 ・1921年、自身初の長編『キッド』を発表。全米で年間第2位の大ヒットに。
 同年、渡米以来初めて故郷ロンドンへ錦を飾り、ファンに熱狂的な歓迎を受けた。
 帰米後、母親ハンナのアメリカ入国が認められ、アメリカの地で再会を果たした。
 (右の写真)『キッド』 ジャッキー・クーガン
The_Kid-2

 ・『のらくら』(1921年)、『給 料日』(1922年)、『偽牧師』(1923年)を発表し、ファースト・ナショナル社との契約を終了。

A_Woman_of_Paris
 ・1923年、ユナイテッド・アーチスツ社での1作目『巴里の女性』を発表。主演はエドナ・パーヴィアンス。チャップリンはワンシーンのみ登場するだけで、監督に専念した作品。芸術的に大変優 れた作品と高評価を得るも、興行的には失敗作に。
 (左の写真)『巴里の女性』
 カール・ミラーとエドナ・パーヴィアンス
 

 ・1924年、女優のリタ・グレイと2度目の結婚。(1928年に離婚)

 ・1925年、『黄金狂時 代』を発表。
 喜劇の最高峰と絶賛され、全米で年間第6位の大ヒット。映画スターとしては初めて雑誌「TIME」の表紙を飾った。
 (右の写真)『黄金狂時代』
The_Gold_Rush
Chaplin-Time

The_Circus-2
 ・1928年、『サーカス』を発表。
 同年8月25日、リタとの離婚が成立。その3日後、最愛の母ハンナが他界。
 (左の写真)『サーカス』
 マーナ・ケネディ、ヘンリー・バーグマンと

 

 ・1929年、第1回アカデミー賞で特別賞を受賞。『サーカス』で、製作・監督・脚本・主演と1人4役を見事にこなした才能に対して贈られた。当のチャップリンは授賞式を欠席。「僅かな人間が決めた賞なんて、そうたいした名誉 ではない。私が欲しいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を称賛してくれたら、それで十分だ」との名言を残した。オスカー像にいたっては、自宅 のドアのつっかい棒にしていたとか。

 ・1931年、『街の灯』を発表。
 新作映画の大半がトーキーである中、サイレントながらも全米で年間第4位の大ヒット。  
 1年半に及ぶ世界旅行に出立し、初来日(1932年)もした。
 (右の写真)『街の灯』 ヴァージニア・チェリルと
City_Lights-2.

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 ・1936年、『モダン・タイ ムス』を発表。
 どこの国の言語でもない言葉で「ティティーナ」を歌い、初めてその声を披露した。全米で年間第3位の大ヒット。
 ポーレット・ゴダードと一緒に再来日した。
 (左の写真) 『モダン・タイムス』 ポーレット・ゴダードと


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