20世紀・シネマ・パラダイス
ジェニファー・ジョーンズ
Jennifer Jones
1919-2009 (アメリカ)
◆
代表作
聖処女
The Song of Bernadette
(1943年/アメリカ)
白昼の決闘
Duel in the Sun
(1946年/アメリカ)
ジェニイの肖像
Portrait of Jennie
(1948年/アメリカ)
黄昏
Carrie
(1952年/アメリカ)
終着駅
Stazione Termini
(1953年/伊・米)
慕情
Love is a Many-Splendored Thing
(1955年/アメリカ)
◆
大プロデューサーの後ろ盾を得て人気スターに
・
1919年
、オクラホマ州生れ。本名は
Phylis Lee Isley
。両親が巡業劇団の俳優だったため、子供の頃から舞台に出演していた。ノースウェスタン大学を中退し、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに入学したが、同窓生のロバート・ウォーカーと恋に落ちて結婚。2人は演劇学校を中退した。
・1939年、ロバート・ウォーカーと結婚。1940年に長男のロバート・ウォーカー・ジュニア、1941年に次男のマイケルを出産。息子たちも俳優となった。
(右の写真)最初の夫ロバート・ウォーカーと息子たちと
・結婚後、一旦故郷のオクラホマへ戻ったが、父親の勧めでハリウッドへ。パラマウント社のオーディションに落選し、B級映画専門のリパブリック社と契約。
ジョン・ウェイン
主演の『
New Frontier
』
(1939年)
で銀幕デビューし、その後、1話15〜20分の連続活劇『
Dick Tracy's G-Men
』
(1939年)
に出演した。
(左の写真)『
New Frontier
』 ジョン・ウェイン(右)と
・ブロードウェイ劇「
Claudia
」
(1941年)
のオーディションに臨み、役を得ることは出来なかったが、彼女の演技を見ていた原作者からハリウッドの大製作者
デビッド・O・セルズニック
を紹介され、セルズニックと専属契約。従来は本名で活動していたが、ジェニファー・ジョーンズの芸名を授けられた。
*
「
Claudia
」のヒロイン役を射止めた
ドロシー・マクガイア
もセルズニックにスカウトされ、同舞台の映画化作品(1943年)で銀幕デビューした。
・セルズニックが20世紀FOX社に『聖処女』
(1943年)
のヒロインとしてジェニファーを推薦。彼女はスクリーン・テストに合格し、19世紀のフランスに実在したカトリック教会の聖女ベルナデッタ・スビルーを演じた。初の大役で実質的なデビュー作とも言えるが、アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされた。
(右の写真)『聖処女』出演時のジェニファー
・1944年3月2日。彼女の25歳の誕生日でもあった日に開催された第16回
(1943年度)
アカデミー賞で主演女優賞を受賞。一躍、ハリウッドの新星となった。
(左の写真)オスカー像を手にするジェニファー
・2作目はセルズニック製作の『君去りし後』
(1944年)
。主役の
クローデット・コルベール
の娘を演じ、彼女の恋人を夫のロバート・ウォーカーが演じた。しかし、撮影期間中、ジェニファーはセルズニックと不倫の関係になり、ロバート・ウォーカーと別居。1945年に離婚した。
ジェニファーは同作でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。
(右の写真)『君去りし後』 ロバート・ウォーカーと
*
ロバート・ウォーカー … 『
東京上空三十秒』
(1944年/監督:
マーヴィン・ルロイ
)
、『見知らぬ乗客』
(1951年/監督:
アルフレッド・ヒッチコック
)
等に出演。ジェニファーとの離婚後、酒に溺れるようになり、1951年に32歳の若さで亡くなった。
・3作目は
ハル・B・ウォリス
製作の『ラブ・レター』
(1946年)。
同作でもアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。
戦後の日本で最初に公開されたジェニファーの作品。
(左の写真)『ラブ・レター』
ジョセフ・コットン
と
・4作目、20世紀FOX社に貸し出されて出演した『小間使』
(1946年)
では、コメディエンヌとしての才能も披露した。名匠
エルンスト・ルビッチ
監督が生前に完成させた最後の作品。
(右の写真)『小間使』
シャルル・ボワイエ
と
・セルズニックからプロポーズされたジェニファーは、「
『風と共に去りぬ』 に負けない作品を作って下さい
」と応えたという。
・セルズニック製作の『白昼の決闘』
(1946年/監督:
キング・ヴィダー
)
は、『風と共に去りぬ』を上回る600万ドルの製作費をかけ、200万ドルの広告宣伝費を投入した超大作。ジェニファーは兄弟から愛される先住民との混血娘を熱演。インフレ調整後の興行成績で歴代第100位
(2017年現在)
となる大ヒットとなり、彼女はアカデミー賞主演女優賞にノミネート
(4年連続のノミネーション)
された。
(左の写真)『白昼の決闘』
グレゴリー・ペック
と
・セルズニック製作の『ジェニイの肖像』
(1948年)
は、貧しい画家の前に美しい女性が時空を超えて現れるというファンタジー作品だが、興行的には失敗作となった。
セルズニックは前作の『パラダイン夫人の恋』
(1947年/監督:アルフレッド・ヒッチコック)
も興行不振だったため、巨額の負債を抱えることとなった。
(右の写真)『ジェニイの肖像』 ジョセフ・コットンと
・セルズニックは
ルイス・B・メイヤー
の娘と結婚していたが、1948年に離婚が成立。
1949年、ジェニファーとセルズニックは再婚し、1954年に長女のメアリーを授かった。
(左の写真)2番目の夫セルズニックと
・セルズニックがイギリスで
『第三の男』
(1949年)
を製作している間、ジェニファーは、『ストレンジャーズ6』
(1949年/監督:
ジョン・ヒューストン
)
、『ボヴァリー夫人』
(1949年/監督:
ヴィンセント・ミネリ
)
に出演。
『ストレンジャーズ6』
(1949年)
ジョン・ガーフィールド
と
『ボヴァリー夫人』
(1949年)
ルイ・ジュールダンと
・イギリスへ渡り、セルズニックが製作総指揮の『女狐』
(1950年/監督:
パウエル&プレスバーガー
)
に出演。
セルズニックは完成した作品に不満で、アメリカでは、
ルーベン・マムーリアン
監督に追加撮影させた再編集版が、別題『
The Wild Heart
』
(1952年)
として公開された。
(右の写真)『女狐』:英題は『
Gone to Earth
』
・ハリウッドで、『黄昏』
(1952年/監督:
ウィリアム・ワイラー
)、
『ルビイ』
(1952年/監督:キング・ヴィダー)
に出演。
『黄昏』
(1952年)
ローレンス・オリヴィエ
と
『ルビイ』
(1952年)
チャールトン・ヘストン
と
・イタリアでセルズニック製作総指揮の『終着駅』
(1953年/監督:
ヴィットリオ・デ・シーカ
)
に出演。旅先のイタリアで出会った青年との情事に苦悩する人妻を巧みに演じた。
アンフェタミンを常用する等、精神的に不安定だったセルズニックは、本作の後、一旦映画製作から離脱した。
(左の写真)『終着駅』
モンゴメリー・クリフト
と
・『悪魔をやっつけろ』
(1953年/監督:ジョン・ヒューストン) 、
『慕情』
(1955年)
に出演。『慕情』のロケで香港へ向かう際、
ウィリアム・ホールデン
と一緒に来日もした。『慕情』は大ヒットし、彼女は9年ぶりにアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。
『悪魔をやっつけろ』
(1953年)
ハンフリー・ボガート
と
『慕情』
(1955年)
ウィリアム・ホールデンと
・『美わしき思い出』
(1955年)、
グレゴリー・ペックとの再共演作『
灰色の服を着た男』
(1956年)、
ノーマ・シアラー
主演 『白い蘭』
(1934年)
のリメイク作
(1957年/日本未公開)
に出演。
『
灰色の服を着た男』
(1956年)
グレゴリー・ペックと
『白い蘭』(1957年)
ビル・トラヴァースと
・セルズニックが、『ジェニイの肖像』以来、9年ぶりとなるハリウッド映画『武器よさらば』
(1957年)
を製作。当初の監督だったジョン・ヒューストンがセルズニックと対立して解任されるトラブルもあり、完成した作品は批評家から酷評され、興行的にも惨敗。セルズニックの最後の作品となった。
(
右の写真)『武器よさらば』
ロック・ハドソン
と
・『武器よさらば』出演後、銀幕から遠ざかっていたが、F・スコット・フィッツジェラルドの小説「夜はやさし」の映画化作品『夜は帰って来ない』
(1962年)
で5年ぶりに銀幕復帰。
(左の写真)『夜は帰って来ない』出演時
・1965年、セルズニックが他界。ジェニファーはアルコールに溺れるようになり、女優としても、低予算の『留学体験 霧の中でさようなら』
(1966年/英)、
同じくB級のカルト映画『ザ・ダムド/あばかれた虚栄』
(1969年)
の2作品に出演しただけで、半ば引退に近い状況となった。
・1967年、多量の睡眠薬を飲んで自殺を図った。『聖処女』、『白昼の決闘』で共演し、親交のあったチャールズ・ビックフォードの死にショックを受けたためと言われている。
・1971年、食品加工会社を手始めに財を成した億万長者で美術品収集家でもあったノートン・サイモンと3度目の結婚。
(右の写真)3番目の夫ノートン・サイモンと
・オールスター・キャストの大作パニック映画『タワーリング・インフェルノ』
(1974年)
で5年ぶりに銀幕復帰。ゴールデン・グローブ賞の助演女優賞にノミネートもされ、本格的な復帰が期待されたが、1976年に娘のメアリーが投身自殺をする不幸に見舞われ、同作が最後の作品となった。
(左の写真)『タワーリング・インフェルノ』
フレッド・アステア
と
・夫のノートン・サイモンも前妻との間に授かった息子の1人を自殺で亡くしており、1980年、夫妻は精神病疾患者の為に「ジェニファー・ジョーンズ・サイモン基金」を設立した。
・『愛と追憶の日々』
(1983年)
のヒロインの母親役を演じることを希望して映画化の権利を取得したが、高年齢と俳優として長いブランクがあることから無理と判断され、その願いは叶わなかった。代わりにその役を演じた
シャーリー・マクレーン
がアカデミー賞主演女優賞を受賞した。
・第70回(1998年)、第75回(2003年)のアカデミー賞授賞式に過去のオスカー受賞者の1人として登場。
・1993年、夫が他界した後は、彼のコレクションを展示している美術館の館長に就任。2007年には、次男のマイケルにも先立たれた。
・
2009年
、
90歳
で他界。
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