20世紀・シネマ・パラダ
イス
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赤い靴
The Red Shoes
監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー
(1948年/イギリス)
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◆ ハリウッ
ドにも多大な影響を与えたイギリスの名作バレエ映画
当代随一の人気と実力を誇るボリス・レルモン
トフ率いるバレエ団がロンドンへやって来た。 |
作曲家志望のジュリアン・クラスターは、自分の曲が盗用されているのを知ってショックを受けたが、バレエ団の
オーケストラの指導係として採用され、俄然張り切り出した。 |
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バレリーナのヴィクトリア・ペイジ(ヴィッキー)は、社交界で顔の利く叔母の計らいもあり、レルモントフ・バレエ団に見習い生として入団することが出来た。 |
次の公演地パリで、プリマ・バレリーナのボロンスカヤが結婚を発表した。レルモントフにとっ
てバレエは信仰であり、恋愛との両立は認められない。ボロンスカヤは退団した。 |
バレエ団はモンテカルロの地へ赴いた。レルモントフはアンデルセンの童謡「赤い靴」
をモチーフとした新作の主役にヴィッキーを抜擢し、その音楽をジュリアンが作曲することになった。 |
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赤い靴を履いた少女は踊り続ける呪いをかけられ、やがて息絶える…。
ヴィッキーとジュリア
ンのデビュー作である舞台「赤い靴」は大成功を収めた。 |
バレエ団はヴィッキーを主役に据え、世界中を公演して廻っていた。ヴィッキーとジュリアン
は恋仲になっていたが、2人の関係はレルモントフも知ることとなった。 |
ジュリアンが指揮を執る舞台でのヴィッキーの踊りに不満を覚えたレルモントフは、ジュリアンを呼び出しクビを言い渡した。
その後、ヴィッキーもレルモン
トフのもとから去って行った…。 |
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バレエ団はボロンスカヤを再びプリマ・バレリーナとして迎い入れたが、レルモントフは、
「赤い靴」だけは決して再公演をしなかった。 |
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ジュリアンと結婚したヴィッキーは、1人の女性としては幸福な生活を送っていたが、バレ
リーナとしては以前のような充実感を得られずにいた。
そんな彼女の前に再びレルモントフが現れた。ヴィッキーは彼の誘いに応じ、再び「赤い靴」の舞台に立つことにしたのだったが…。 |
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『赤い靴』 予告編動画
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◆ 主な出演者など
ヴィッキー役
モイラ・シアラー
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ボリス・レルモントフ役
アントン・ウォルブルック
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ジュリアン・クラスター役
マリウス・ゴーリング
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グリシャ・リュボフ役
レオニード・マシーン
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イヴァン・ボレスラウスキー役
ロバート・ヘルプマン
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・モイラ・シアラー(スコットランド)。15歳の時にバレリーナとしてデビュー。22歳の時に本作のヒロインに抜擢され、以後、『ホフマン物語』(1951年)、『三つの恋の物語』(1953年)、『血を吸うカメラ』(1960年)等に出演した。 |
・アントン・ウォルブルック(オーストリア)。サイレント期からドイツで活動していたが、ユダヤ系だったためイギリスへ移住。『ガス燈』(1940年)、『老兵は死なず』(1943年)、『輪舞』(1950年/仏)、『埋もれた青春』(1954年/仏/監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ)、『聖女ジャンヌ・ダーク』(1957年/英・米/監督:オットー・プレミンジャー)等に出演。
(右の写真)モイラ・シアラー、アントン・ウォルブルック
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・マリウス・ゴーリング(イングランド)。『天国への階段』(1946年)、『裸足の伯爵夫人』(1954年/米)、『あの胸にもう一度』(1968年/英・仏)等に出演した他、主にイギリスの舞台で活躍した。
(左の写真) モイラ・シアラー、マリウス・ゴーリング
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・レオニード・マシーン(ロシア)。バレ
エ史に名を残すロシアの名ダンサー。モイラ・シアラーのダンス等、本作のバレエの振付はロバート・ヘルプマンが担当したが、レオニード・マシーンのダンス
は自身が振付した。本作でもバレエの素晴らしさを堪能させてくれる見事なパフォーマンスを披露。映画は本作と『ホフマン物語』(1951年)に出演した。
(右の写真)レオニード・マシーン |
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・ロバート・ヘルプマン(オーストラリア)。俳優、舞踏家、振付師、舞台監督として、シェークスピア劇、ミュージカル、パントマイム、オペラと多岐に亘るジャンルで活躍。映画は『ヘンリィ五世』(1944年)、『ホフマン物語』(1951年)、『北京の55日』(1963年)、『チキ・チキ・バン・バン』(1968年)等に出演。葬儀はオーストラリアの国葬として執り行われた。
(左の写真)ロバート・ヘルプマン、リュドミラ・チェリーナ(ボロンスカヤ役)
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・米アカデミー賞において、作品、脚本 (原案)、
美術・装置(カラー部門)、編集、劇・喜劇映画音楽の5部門でノミネートされ、作品賞は同じイギリス映画
の『ハムレット』に競り負けたが、美術・装置、劇・喜劇映画音楽賞の2部門で受賞した。
(右の写真)左から、マリウス・ゴーリング、モイラ・シアラー、アントン・ウォルブルック
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・1999年、イギリス映画協会が発表した「20世紀のイギリス映画ベスト100」
で第9位に選出された。
・2009年のカンヌ国際映画祭で、マーティン・スコセッシ監督が2年がかりで修復したデ
ジタルリマスター版が公開された。
(左の写真)左から、モイラ・シアラー、ロバート・ヘルプマン、レオニード・マシーン
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◆ ピック・アップ … マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー
| Michael Powell (左) 1905-1990(イギリス)
Emeric Pressburger (右) 1902-1988(ハンガ
リー)
・『スパイ』(1939年/監督:パウエル、脚本:プレスバーガー)の製作時に意気投合し、1942年に共同で映画製作会社「Archers」を設立。
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・『老兵は死なず』(1943年)、『天国への階段』(1946年)、
『黒水仙』(1947年)、『赤い靴』(1948年)、
『ホフマン物語』(1951年)、『戦艦シュペー号の最後』(1956年)等の傑作を共同で製作・監督・脚本し、イギリス映画界で一時代を築いた。 |
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『天国への階段』(1946年)
キム・ハンター、デヴィッド・ニーヴン
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『黒水仙』(1947年)
デボラ・カー |
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『赤い靴』(1948年)
ロバート・ヘルプマン、
モイラ・シアラー |
『ホフマン物語』(1951年)
モイラ・シアラー、ロバート・ヘルプマン |
・名カメラマンのジャック・カーディフを起用した
『天国への階段』、『黒水仙』、『赤い靴』は、カラー映画の芸術性を高め、ハリウッド映画にも多大な影響を及ぼした。
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・1957年、コンビを解消。マイケル・パウエルは『血を吸うカメラ』(1960年)等を監督。『血を吸うカメラ』は、公開当時に批評家から酷評され、パウエ
ルの名声が失墜したといういわくつきの作品だが、後年、マーティン・スコセッシ監督が絶賛するなど再評価され、現在では、ホラー、サイコスリラーの傑作とし
てカルト的な人気を得ている。
(右の写真)『血を吸うカメラ』モイラ・シアラー
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・エメリック・プレスバーガーは、フレッド・ジンネマン監督によって映画化もされた小説「日曜日には鼠を殺せ」等を執筆した。
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・コンビを復活し、『They're a Weird Mob』(1966年)、『The Boy Who Turned Yellow』(1972年)の2作品を撮った。2作品とも日本では公開されていない。
(左の写真)プレスバーガー(左)とパウエル
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