20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
Otto_Preminger

オットー・プレミンジャー

Otto Preminger

1905-1986(オーストリア)

Megaphonrbar


  ◆ 代表作

Laura
The_Moon_Is_Blue
ローラ殺人事件
Laura

(1944年/アメリカ)
月蒼くして
The Moon Is Blue
(1953年/アメリカ)
The_Man_with_the_Golden_Arm
Bonjour_tristesse-2
黄金の腕
The Man with the Golden Arm
(1955年/アメリカ)
悲しみよこんにちは
Bonjour Tristesse
(1958年/米・英)
Anatomy_of_a_Murder
Exodus
或る殺人
Anatomy of a Murder
(1959年/アメリカ)
栄光への脱出
Exodus
(1960年/アメリカ)

   
     ◆
 多様なジャンルで意欲的な作品を撮る

 ・1905年、オーストリア=ハンガリー帝国生れ。両親ともユダヤ人。弟は、『MASH マッシュ』(1970年)の製作者インゴ・プレミンジャー。

 ・舞台俳優としてキャリアをスタートさせ、その後、舞台監督として活躍していたところ、20世紀FOX社にスカウトされてハリウッドへ。ところが、3作目の『Kidnapped(1938年)の撮影中、ダリル・F・ザナックと喧嘩し、社から追放されてしまった。

 ・約5年間、ブロードウェイで活動していたが、舞台監督を務めた「Margin for Error」が20世紀FOX社で映画化(1943年)されることになり、監督兼主要キャストの1人として同社に復帰。この時期、ダリル・F・ザナックは軍務に就いていて不在だった。
 (右の写真)『Margin for Errorジョーン・ベネット
  プレミンジャーはナチスの高官でもあるドイツ総領事に扮した。

Margin_for_Error

 ・復帰後の3作目、『ローラ殺人事件』(1944年)の製作準備中にダリル・F・ザナックが社に復帰し、監督はルーベン・マムーリアンに交代させられた。しかし、撮影が始まって2週間後、ラッシュを観て不満を抱いたザナックに、製作者として携わっていたプレミンジャーが自説をアピールして監督に就任。作品は大ヒットし、プレミンジャーはアカデミー賞監督賞にノミネートもされ、出世作となった。
Laura-3
Laura
『ローラ殺人事件』(1944年)
ジーン・ティアニーダナ・アンドリュース

『ローラ殺人事件』撮影時
ダナ・アンドリュース(中央)、クリフトン・ウェッブ(右)と

 ・20世紀社FOX社在籍中は、リンダ・ダーネル主演の大ヒット作『永遠のアンバー』(1947年)等を監督した。
Forever_Amber
Forever_Amber
『永遠のアンバー』(1947年)
リンダ・ダーネル
『永遠のアンバー』撮影時
リンダ・ダーネルと

 ・フリーとなってから、ブロードウェイで演出したロマンチック・コメディ劇「The Monn Is Blue」が大ヒット。同作を自ら製作・監督した映画『月蒼くして』(1953年)が映倫規定に抵触すると判断されると、映倫マークなしで公開する手段に打って出て、大ヒットさせた。(詳細はこちら
The_Moon_Is_Blue-3
The_Moon_Is_Blue-2
『月蒼くして』(1953年)
ウィリアム・ホールデン、マギー・マクナマラ、デヴィッド・ニーヴン
『月蒼くして』撮影時
ウィリアム・ホールデン(右)と
River_of_No_Return
River_of_No_Return
『帰らざる河』(1954年)
ロバート・ミッチャムマリリン・モンロー
『帰らざる河』撮影時
マリリン・モンロー、ロバート・ミッチャム(右)と
Carmen_Jones
Carmen_Jones
『カルメン』(1954年)
ハリー・ベラフォンテ、ドロシー・ダンドリッジ

『カルメン』撮影時
ドロシー・ダンドリッジと

 ・麻薬中毒を題材とした最初の映画『黄金の腕』(1955年)は、『月蒼くして』の騒動がきっかけで映倫規定が緩和されたことにより映画化が実現した。また、タイトル・デザインを手掛けたソール・バスの出世作になった。
The_Man_with_the_Golden_Arm-3
The_Man_with_the_Golden_Arm
『黄金の腕』(1955年)
フランク・シナトラキム・ノヴァク
『黄金の腕』撮影時
フランク・シナトラ(左)と
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The_Court-Martial_of_Bill_Mitchell
『軍法会議』(1955年)
ゲーリー・クーパー
『軍法会議』撮影時
ゲーリー・クーパー(右)と

 ・『聖女ジャンヌ・ダーク』(1957年/英・米)では、映画初出演のジーン・セバーグをヒロインに抜擢。次作の『悲しみよこんにちは』(1958年/英・米)でもヒロインに起用し、人気スターに育て上げた。
Saint Joan
Saint Joan
『聖女ジャンヌ・ダーク』(1957年)
ジーン・セバーグ
『聖女ジャンヌ・ダーク』撮影時
ジーン・セバーグと
Bonjour_tristesse
Bonjour_Tristesse
『悲しみよこんにちは』(1958年)
ジーン・セバーグ
『悲しみよこんにちは』撮影時
ジーン・セバーグと

 ・オール黒人キャストのミュージカル『ポギーとベス』(1959年 … 本作も解任されたルーベン・マムーリアンの後任) 、レイプ事件を題材とした法廷劇『或る殺人』(1959年)を監督。
Porgy_and_Bess
Porgy_and_Bess
『ポギーとベス』(1959年)
シドニー・ポワチエ
ドロシー・ダンドリッジ
『ポギーとベス』撮影時
シドニー・ポワチエ、
ドロシー・ダンドリッジと
Anatomy_of_a_Murder-3
Anatomy_of_a_Murder
『或る殺人』(1959年)
ベン・ギャザラ、ジェームズ・ステュアート
『或る殺人』撮影時
ベン・ギャザラ(左)、ジェームズ・ステュアート(手前)と

 ・ユダヤ人国家イスラエルの建国を描いた『栄光への脱出』(1960年)、政界の裏側をオールスター・キャストで描いた『野望の系列』(1962年)を監督。
Exodus
Exodus-2
『栄光への脱出』(1960年)
ポール・ニューマンエヴァ・マリー・セイント
『栄光への脱出』撮影時
 エヴァ・マリー・セイント、ポール・ニューマン(右)と
Advise & Consent
Advise & Consent
『野望の系列』(1962年)
バージェス・メレディス、ポール・スティーヴンス、ヘンリー・フォンダ
『野望の系列』撮影時

 ・カトリック神父の苦悩を描いた『枢機卿』(1963年)で、2度目のアカデミー賞監督賞候補に。
The Cardinal
The_Cardinal-2
『枢機卿』(1963年)
トム・トライオン、ロミー・シュナイダー
『枢機卿』撮影時
トム・トライオン(左)、ロミー・シュナイダーと
In_Harm's_Way
In_Harm's_Way
『危険な道』(1965年)
ジョン・ウェイン、バージェス・メレディス、ヘンリー・フォンダ

『危険な道』撮影時
ジョン・ウェイン(右)と

Rosebud  ・『栄光への脱出』のヒットを最後に興行的には苦戦を強いられたが、最後の作品『ヒューマン・ファクター』(1979年)まで映画を撮り続けた。
 (左の写真)『ローズバッド』(1975年)撮影時。ピーター・オトゥール(右)と

・ところで、プレミンジャー監督の作品でブレイクした女優は、なぜか不幸な末路を辿った。

 マギー・マクナマラ。『月蒼くして』(1953年)で銀幕デビューし、同作でアカデミー賞主演女優賞にノミネートもされたが、その後の映画出演は僅か3作品のみ。1963年まで舞台やTVで活動していたが、その後はニューヨークでタイピストの仕事に就いていた。1978年、薬物の多量摂取により49歳で亡くなった。
 (右の写真)マギー・マクナマラ
Maggie_McNamara


Dorothy Dandridge
 ドロシー・ダンドリッジ。ティーンエイジの頃からタレントとして活動。『カルメン』(1954年)で、 黒人女優では初めてアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。‟黒いマリリン・モンロー”とも称されたが、当時は黒人俳優が活躍できる機会はごく僅か で、私生活でも、既婚者のプレミンジャー監督の子供を身籠って中絶する等のトラブルに見舞われた。1965年、薬物の多量摂取により42歳で他界。銀行口 座には2ドル位しか残っていなかったという。(左の写真)ドロシー・ダンドリッジ


 ジーン・セバーグ。17歳の時に『聖女ジャンヌ・ダーク』(1957年)で銀幕デビュー。『悲しみよこんにちは』(1958年)、『勝手にしやがれ』(1959年/監督:ジャン=リュック・ゴダールの大ヒットで世界的なアイドルとなったが、その後は作品に恵まれず、私生活でもトラブルに見舞われ、1979年、アルコールと薬物の摂取により40歳で亡くなった。
 (右の写真)ジーン・セバーグ
Jean Seberg


 リンダ・ダーネルは41歳の時に火事で焼死、マリリン・モンローは36歳で自殺しています…。

 ・元々俳優だったプレミンジャーは、前述の通り、『Margin for Error(1943年)で主要キャストを演じ、その後も自作にエキストラとして出演した他、『第十七捕虜収容所』(1953年/監督:ビリー・ワイルダーでナチス・ドイツ軍の捕虜収容所の所長を演じ、TVドラマ「バットマン」(1966年〜1968年)で‟ミスター・フリーズ”を演じた。
Stalag_17 Batman_TV
『第十七捕虜収容所』(1953年)
ウィリアム・ホールデン(左) と
TVドラマ「バットマン」

 ・私生活では3度結婚したが、愛人だった‟ストリッパーの女王”ジプシー・ローズ・リーが彼の子供を産んでおり、前述の通り、ドロシー・ダンドリッジとも不倫をしていた。

 ・1986年79歳で他界。

 ・2008年、AFI (アメリカ映画協会)が選定した「ジャンル別ベスト10・ミステリー映画」で、『ローラ殺人事件』が第4位にランクイン。


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