20世紀・シネマ・パラダイス

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Ernst Lubitsch

エルンスト・ルビッチ

Ernst Lubitsch

1892-1947 (ドイツ/アメリカ)

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   代表作

Lady Windemere's Fan  ウィンダミア夫人の扇
 Lady Windermere's Fan
  (1925年/アメリカ)
The Love Parade  ラヴ・パレイド
 The Love Parade
  (1929年/アメリカ)
The Smiling Lieutenant  陽気な中尉さん
 The Smiling  Lieutenant
 (1931年/アメリカ)
Trouble in Paradise
 極楽特急
 Trouble in Paradise
 (1932年/アメリカ)
Bluebeard's Eighth Wife
 青髭八人目の妻
 Bluebeard's Eighth Wife
 (1938年/アメリカ)
Ninotchka
  ニノチカ
 Ninotchka
 
(1939年/アメリカ)
The Shop Around the Corner
 街角 桃色の店
 The Shop Around the Corner
 (1940年/アメリカ)
To Be or Not to Be
  生きるべきか死ぬべきか
 To Be or Not to Be
 
(1942年/アメリカ)

    ソフィスティケイテッド・コメディの第一人者

 ・1892年、ベルリン生まれ。1908年、学校を中退して舞台芸人となり、11年にドイツ演劇界の「皇帝」 マックス・ラインハルトの劇団に入団。翌12年、短編映画に初出演した。

 ・1914年、自ら脚本を執筆し、主役も務めた 『Fraulein Seifenschaum(1914年) で映画監督としてデビュー。
 ポーラ・ネグリ主演の 『呪の眼』、『カルメン』 (1918年)、『パッション (1919年)、『寵姫ズムルン』 (1920年) といった作品が大ヒットし、ドイツ映画界で確固たる地位を築いた。
 ドイツ映画の輸入規制をしていたアメリカでも数年遅れて公開され、大ヒットした。
  (右の写真) 俳優としては最後の作品となった 『寵姫ズムルン』 で、ポーラ・ネグリと
Sumurun

 ・1923年、「アメリカの恋人」 メアリー・ピックフォードに招かれ、彼女の主演作 『ロジタ』 を監督。映画はヒットしたが、ピックフォードが作品を気に入らず、何より2人は馬が合わなかったようで、3作撮る予定が1作で契約終了となった。
Rosita-4
Rosita
撮影時のルビッチ監督(右上)とピックフォード(手前)
撮影時。ピックフォードと

 ・アメリカに留まり、ワーナー・ブラザーズ社と契約。『結婚哲学』 (1924年)、『ウィンダミア夫人の扇』 (1925年) 等、5作品を監督。チャップリンキートンに代表されるドタバタ喜劇が主流であったハリウッドに、上品で洗練されたソフィスティケイテッド・コメディをもたらした。
The_Marriage_Circle
Lady_Windermere's_Fan-2.
『結婚哲学』 フローレンス・ヴィダーとモンテ・ブルー
『ウィンダミア夫人の扇』 メイ・アカヴォイとロナルド・コールマン

 ・フェーマス・プレーヤーズ・ラスキー・スタジオでポーラ・ネグリ主演の 『禁断の楽園』 (1924年) 、MGM社でノーマ・シアラー主演の 『思い出』 (1927年) を監督。
Forbidden Paradise The_Student_Prince_in_Old_Heidelberg
『禁断の楽園』 撮影時。ポーラ・ネグリと。 『思い出』 ラモン・ノヴァロとノーマ・シアラー

The Patriot  ・1928年、パラマウント社と契約。
 18世紀のロシア皇帝パーヴェル1世の伝記映画 『The Patriot (1928年) を監督。
 第2回アカデミー賞で作品賞・監督賞等にノミネートされたが、オスカー候補となった作品では唯一の失われた作品となっている。
  (左の写真) 『The Patriot 』 撮影時。エミール・ヤニングス(後)と

 ・自身初のトーキー 『ラヴ・パレイド』 (1929年) では、台詞が歌になるというミュージカルの原点とも言える ‟シネ・オペレッタ” というジャンルを創造。2度目のアカデミー賞監督賞候補となった。
The_Love_Parade-2
Lubitsch and Chevalier
『ラヴ・パレイド』 撮影時。ルビッチ監督 (手前左から3番目)、
隣はジャネット・マクドナルドとモーリス・シュヴァリエ

『陽気な中尉さん』 (1931年) 撮影時。モーリス・シュヴァリエと

 ・ウィットに富んだ会話や、男女の視線などにより、上品なエロティシズムを醸し出すその独特な作風は、‟ルビッチ・タッチ” と呼ばれるようになった。
Trouble in Paradise-2 Design for Living
『極楽特急』 撮影時。ミリアム・ホプキンス 『生活の設計』 (1933年)撮影時。 ゲーリー・クーパー(左)、
ミリアム・ホプキンス、フレドリック・マーチ (右)と

 ・1935年、パラマウント社の製作部門の責任者となり、『真珠の頸飾』 (1936年/監督:フランク・ボーゼージ 等を手掛けたが、適職ではなかったようで、1年で辞めた。その後、同社で 『天使』 (1937年)『青髭八人目の妻』 (1938年) の2作品を撮った。
Angel Bluebeard's_Eighth_Wife-2.
『天使』 撮影時。マレーネ・ディートリッヒ
『青髭八人目の妻』 撮影時。
ゲーリー・クーパー、クローデット・コルベール


 ・MGM社で 『ニノチカ』 (1939年)、『街角 桃色の店』 (1940年) の2作を監督。
Ninotchka-2 The Shop Around the Corner-2
『ニノチカ』 撮影時。グレタ・ガルボ 『街角 桃色の店』 (1940年) 撮影時。
マーガレット・サラヴァンジェームズ・ステュアートと

 ・独立し、『淑女超特急』 (1941年)『生きるべきか死ぬべきか』 (1942年) を製作・監督。
  (右の写真) 『生きるべきか死ぬべきか』 撮影時。キャロル・ロンバードと。

 ・20世紀FOX社に迎えられ、自身初のカラー作品 『天国は待ってくれる』 (1943年)で3度目のアカデミー賞監督賞候補となったが、受賞には至らなかった。
Lubitsch and Lombard

Lubitsch Oscar  ・1947年、アカデミー賞名誉賞を受賞。
   (左の写真) オスカー像を手にするルビッチ監督

 ・1947年、心臓発作により、55歳で他界。 『小間使』 (1946年) が最後の作品となった。多くの映画監督に多大な影響を与えたルビッチ監督。『青髭八人目の妻』、『ニノチカ』 の脚本を書いた ビリー・ワイルダーはルビッチを師と仰ぎ、オフィスには 「ルビッチならどうする?」 という看板を掲げていた。 

おまけ
Ernst Lubitsch-3
 葉巻がトレード・マークだったが、これはちょっとデカ過ぎ。

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