20世紀・シ ネマ・パラダイス
ポーラ・ネ グリ
Pola Negri
1897-1987 (ポーランド/アメリカ)
◆
代表作
カルメン
Carmen
(1918年/ドイツ)
パッション
Madame Du Barry
(1919年/ドイツ)
ベラ・ドンナ
Bella Donna
(1923年/アメリカ)
マヅルカ
Mazurka
(1935年/ドイツ)
◆
ハリウッドに招かれた最初の欧州の女優
グレタ・ガルボ
や
マレーネ・ディートリッヒ
よりも先に、ハリウッドに招かれた欧州の女優。
・
1897年
、ポーランド生れ。バレリーナを志していたが、病に罹り断念。 回復後、ワルシャワ帝国演劇芸術アカデミーに入り、1913年に舞台デビュー。
翌年、ポーランド初の長編映画『官能の奴隷』で銀幕デビューを果たし、人気女優となった。
(右の写真)『官能の奴隷』(1914年)
・1917年、ドイツのベルリンで舞台に出演しているところをスカウトされ、サターン・ フィルム社、次にウーファ社と契約。
エルンスト・ルビッチ
監督の 『呪の眼』、『カルメン』
(1918年)
、『パッション
』
(1919年)
、『寵姫ズムルン』
(1920年)
といっ た作品が大ヒット。数年遅れて公開されたアメリカでも評判となり、欧州の女優では初めてハリウッドに招かれた。
(左の写真) 『パッション』
・フェーマス・プレーヤーズ・ラスキー・スタジオ
(後のパラマウント社)
と契約し、『ベラ・ドンナ』
(1923年)
でハリウッド・デビュー。
『禁断の楽園』
(1924年/監督:エルンスト・ルビッチ)
、『帝国ホテル』
(1927年)
等に出演した。
(右の写真)『ベラ・ドンナ』
・私生活でも世間を賑わせた。「世界の喜劇王」
チャールズ・チャップリン
とは婚約までしたとの説もある。
ところが、そのチャップリンを袖にして、
ルドルフ・ヴァレンチノ
と恋仲 になった。
(左の写真)チャップリンと
・ヴァレンチノが1926年に急死すると、彼女はヴァレンチノと婚約してい たと公表。彼の葬儀では、カメラの前で何度も失神したという。
しかし、婚約は作り話であり、葬儀での失神もパフォーマンス、売名行為だと非難もされた。
(右の写真)ヴァレンチノと
・『モスクワから来た女』
(1928年)
を最後に、パラマウント社との契約を打ち切られた。人気も下降し、何より、訛りのひどい英語はトーキーには向かないと判断されたと言われている。
その後、イギリスで1本だけ『
The Way of Lost Souls
』
(1929年)
に出演した。
(左の写真) 『
The Way of Lost Souls
』
ワーウィック・ウォードと
・自身初のトーキー『
A Woman Commnds
』
(1932年/RKO社)
で3年ぶりに銀幕復帰。映画は赤字となったが、彼女が唄った「
Paradise
」がヒットし、歌手として巡業公演を行った。
(右の写真)ラジオ放送で歌うポーラ・ネグリ
・1934年、フランスへ渡り、ドイツ・ウーファ社のフランス支店が製作した 『マズルカ』
(1935年)
等に出演していたが、ナチス・ドイツによるフランス占領を機にアメリカへ戻り、11年ぶりにハリウッド映画 『
Hi Diddle Diddle
』
(1943年)
に出演。その後、歌手として巡業公演を行い、1945年頃に引退した。
(左の写真)『
Hi Diddle Diddle
』
アドルフ・マンジュー
と
・
『サンセット大通 り』
(1950年/監督:
ビリー・ワイルダー
)
のヒロイン候補でもあった。役柄が気に入らず本人が辞退したとも、訛りがひどいため製作サイドで諦めたとも言われ ている。尚、『悲愁』
(1978年/
監督:ビリー・ワイルダー)
のモデルの1人でもある。
・ウォルト・ディズニー製作の実写映画『クレタの風車』
(1964年)
で、21年ぶりに銀幕復帰。
ディズニー本人に説得されての出演で、1作品だけのカムバックだった。
(右の写真) 『クレタの風車』
・1970年、自伝を出版。
・
1987年
、
90歳
で他界。
・2006年、彼女の人生を綴ったドキュメンタリー映画『
Life Is a Dream in Cinema
』が公開された。
『
Life Is a Dream in Cinema
』 予告編
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