20世紀・シネマ・パラダイス
ルドルフ・ヴァレンチノ
Rudolph Valentino
1895-1926 (イタリア)
◆
代表作
黙示録の四騎士
The Four Housemen of the Apocalypse
(1921年/アメリカ)
シーク
The Sheik
(1921年/アメリカ)
血と砂
Blood and Sand
(1922年/アメリカ)
熱砂の舞
The Son of Sheik
(1926年/アメリカ)
◆
サイレント期の伝説の美男スター
・
1895年
、イタリア生れ。父親はイタリア人で、母親はフランス人。
本名は
Rodolfo Alfonso Raffaello Piero Filiberto Guglielmi di Valentina d'Antoguolla
。とっても長い名前。
・1913年、18歳の時に、職を求めて渡米。様々な仕事に就いた後、ニューヨークの有名な高級レストランでタクシー・ダンサーとして働くようになった。顧客はお金持ちの有閑マ ダムたち。ジゴロのような生活を送っていたが、パトロンだった女性の痴話喧嘩に巻き込まれ、発砲事件にまで発展。トラブルから逃げるように、地方 巡業の歌劇団に入り、西海岸へ移動した。
・1917年、ハリウッドへ。ニューヨーク在住の頃からエキストラで映画に出演
(1914年〜)
していたが、ハリウッドに着いてから本格的に映画俳優として働き始めた。しかし、エキストラや端役しか与えられず、下積みの日々が数年続いた。この時期、日本人スター
早川雪洲
の家で働いたこともあったという。
(右の写真)『社交界の花形』(1918年) カーメル・マイヤーズと
・1919年、女優のジーン・アッカーと結婚したが、僅か6時間で別れたという。理由は、彼女がレズビアンだったためとされているが…?
(左の写真)最初の結婚相手ジーン・アッカー
・1921年、メトロ社の脚本部門の責任者だったジューン・マシス女史に見出され、大作『黙示録の四騎士』
(監督:レックス・イングラム)
の主役の1人に抜擢された。作品は記録的な大ヒットとなり、得意のアルゼンチン・タンゴを披露したヴァレンチノは、世界中の女性ファンのハートを掴み、一躍人気スターとなった。
(右の写真)『黙示録の四騎士』 アルゼンチン・タンゴのシーン
*
『黙示録の四騎士』 … インフレ調整後の興行成績では歴代第116位。
サイレント映画では歴代第1位(2014年現在)。
『征服の力』 (1921年) アリス・テリーと
『椿姫』
(1921年) アラ・ナジモヴァと
・メトロ社の待遇に不満で、
フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社
へ移籍。 同社での最初の作品『シーク』
(1921年)
が大ヒットし、ヴァレンチノの人気を決定づけた。
(左の写真)『シーク』 アグネス・エアーズと
『海のモーラン』 (1922年)
ドロシー・ダルトンと
『巨巖の彼方』(1922年/監督:
サム・ウッド
)
グロリア・スワンソン
と
・『海のモーラン』、『巨巖の彼方』はコケたが、スペインの闘牛士に扮した『血と砂』
(1922年)
が大ヒットし、人気はピークに達した。
ヴァレンチノ本人のお気に入りだったとされる作品。
(右の写真)『血と砂』
・ 1922年、『椿姫』等の衣装をデザインしたナターシャ・ランボヴァと再婚。ところが、前妻ジーン・アッカーとの離婚が成立しておらず、ヴァレンチノは重 婚罪で拘留された。最初の結婚が僅か6時間だったという話は、この時の裁判でヴァレンチノ側から出た証言だが、かの国の裁判での証言なので鵜呑みには出来 ない。
ともあれ、ヴェレンチノとナターシャは、翌年、正式に結婚したが、2年後に離婚した。
(左の写真)2番目の妻ナターシャ・ランボヴァと
・『血と砂』の脚本は、B級俳優だったヴァレンチノを見出したジューン・マシス女史。何と、ヴァレンチノの後を追って、メトロ社からフェイマス社へ移籍していたという。彼女は、重婚罪で拘留されていたヴァレンチノを保釈させた1人でもある。
(右の写真)『血と砂』撮影時。ジューン・マシスと
・『ヤング・ラジャー』
(1922年)
に出演後、フェイマス社と対立し、‟ワンマン・ストライキ”に突入。対立は2年間続き、この間、他社の作品にも出演することが出来なかった。
ジューン・マシス脚本の大ヒット作『ベン・ハー』
(1925年)
も、出演が叶わなかった作品の1つとされている。
(左の写真)『ヤング・ラジャー』 ワンダ・ホウリーと
・ヴェレンチノは美容製品会社とタイアップし、アメリカ、カナダの88都市を廻って美人コンテストを実施。
その時の模様を収めたドキュメンタリー映画『
Rudolph Valentino and His 88 American Beauties
』
(1923年)
の監督を務めたのは、後に
『風と共に去りぬ』
(1939年)
等を製作したデビッド・O・セルズニック。
『ボーケール』(1924年)
ビーブ・ダニエルズ
と
『情熱の悪鬼』(1924年) ニタ・ナルディと
・『情熱の悪鬼』
(1924年)
出演後、フェイマス社との契約を終了。
リッツ・カールトン社と契約し、『コブラ』
(1925年)
に出演。2作目の『
The Hooded Falcon
』の撮影に入ったが、ヴァレンチノがジューン・マシスの脚本に難色を示し、彼女と喧嘩別れ。同作は未完のままとなった。マシスとはその後和解した。
(左の写真)『コブラ』 ニタ・ナルディと
・ユナイテッド・アーチスツ社と契約し、『荒鷲』
(1925年/監督:
クラレンス・ブラウン
)
に出演。
(右の写真)『荒鷲』 ヴィルマ・バンキーと
・
1926年
、新作『熱砂の舞』の撮影後、潰瘍を患い、手術後の経過が悪く、
31歳
で他界。映画俳優としてブレイクしてから僅か5年だった。
・彼の葬儀には、街中を埋め尽くすほどの女性ファンが駆けつけ、後追い自殺者まで出た、という伝説が残っている。
・人気女優の
ポーラ・ネグリ
と婚約をしていたとの説があるが、これはネグリが売名の為にでっち上げた作り話だとも言われている。
また、ヴァレンチノは生前、無名のショーガールに夢中だったとの説もある。
さすがイタリアの色男。色恋沙汰が多かったようです。
(左の写真)ヴァレンチノの葬儀でのポーラ・ネグリ(中央)
・遺作となった『熱砂の舞』
(『シーク』の続編)
は没後に公開され、『血と砂』以来の大ヒット作となった。
(右の写真)『熱砂の舞』 ヴィルマ・バンキーと
・
“ヴァレンチノが私を見つめるから”
と、当時の女性ファンは目一杯のおめかしをして映画館に詰めかけ、失神する者もいたという。
映画創生期ならではの微笑ましいエピソード。
きっと、映画館の中は、女性ファンの熱気と、お化粧の臭いでムンムンしていたんでしょうね。
・ヴァレンチノは、離婚に伴う慰謝料の支払いなど借金を背負っており、墓地の手配も出来なかったという。
彼の遺体は、ジュー ン・マシス女史が自分用に購入していた墓地に仮埋葬されたが、そのマシスも翌年38歳で急死。ヴァレンチノの遺体は隣に移された。
!
毎年、彼の命日には、喪服姿の女性が墓前に花を供えに現れるとの都市伝説があった。
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Queen の「懐かしのラヴァー・ボーイ」、プリンスがバングルスに提供した「マニック・マンデー」等、欧米の多くの楽曲にヴァレンチノの名前が登場。美男子の代名詞的存在となっている。
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