20世紀・シ ネマ・パラダイス

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Gloria Swanson

グロリア・ スワンソン

Gloria Swanson

1899-1983 (アメリカ)


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     代表作

Male and Female-3 Sadie Thompson
男性と女性
Male and Female
(1919年/アメリカ)
港の女
Sadie Thompson
 (1928年/アメリカ)
Queen_Kelly Sunset Boulevard
クィーン・ケリー
Queen Kelly
(1929年/アメリカ)
サンセット大通り
Sunset  Boulevard
(1950年/アメリカ)


    元祖 ‟ハリウッドの女王”

 ・1899年、イリノイ州生れ。15歳の時に、シカゴのエッサネイ社で撮影 の見学中にスカウトされ、『The Song of the Soul(1914年)のエキストラで銀幕デビュー。『チャップリンの役者』(1915年)にも端役で出演した。

 ・1916年、共演者のウォーレス・ビアリーと結婚。
 夫婦でカリフォルニア州へ移り、ドタバタ喜劇で人気のあったマック・セネットのキーストン社と契約した。 
 (右の写真)ウォーレス・ビアリーと
 キーストン社でも数本で共演した
Wallace Berry

Swanson-5  ・キーストン社の名物だった‟水着美人=Bathing Beauties ”の1人として活躍。
 (左の写真)キーストン社時代のグロリア・スワンソン

 ・1918年、コメディよりもドラマへの出演を望み、トライアングル・フィルム社(キーストン社の親会社)へ移籍。長編のドラマに出演 するようになった。

 ・1919年、フェーマス・プレーヤーズ・ラスキー・スタジオ(後のパラマウント社)と契約。
 『夫を変へる勿れ』、『連理の枝』、『男性と女性』(1919年)、『何故妻を換へる?』『人間苦』(1920年)、『アナトール』(1921年) と、セシル・B・デミル監督作品の看板女優として活躍し、大スターとなった。
 (右の写真)『男性と女性』
Male_and_Female-2

 ・1919年、ウォーレス・ビアリーと離婚。酒癖が悪かったビアリーが、妊娠し たスワンソンに堕胎薬を飲ませたという話も。同年、映画配給会社の社長と再婚したが、1922年に離婚した。

 ・ファッション・リーダーとなった最初の映画スターでもあった。多くの女性ファン が、彼女の衣装を観るために映画館に足を運んだという。 
Beyond_the_Rocks-2
 ・誰よりも高い出演料を獲り、“ハリウッドの女王”となったスワンソン。私生活も銀幕の中と同様に派手なものだったらしい。
 夜ごと豪華な衣装に身を包み、高級車で夜会へ繰り出す“社交界の女王”と しても世間を賑わせた。
  「1週間の食費が1,000ドル」、「年に100万ドル稼ぎ、100万ドル使った」、などという伝説も。 
 (左の写真)『巨巌の彼方』(1922年) ルドル フ・ヴァレンチノ

 ・1925年、フランス人貴族と3度目の結婚。(詳細はこちら

 ・1927年、自身の映画製作会社を設立。サマセット・モームの短編小説 「雨」を映画化した『港の女』(1928年)が大ヒット。タイトル・ロールを演じたスワンソンは、第1回アカデミー賞の主演女優賞にノミーネートされた。
 本命との前評判だったが受賞は逃した。娼婦の役だったので敬遠されたとも言われいる。
 (右の写真)『港の女』ラオール・ウォ ルシュ
Sadie_Thompson-3
 * 『港の女』 … ジョーン・クロフォード主演『雨』(1932年)として再映画化もされた。

Queen_Kelly-2
 ・3作目『クィーン・ケリー』の撮影中に、監督のエリッヒ・フォン・シュトロハイムと衝突し、製作中止となるトラブルに見舞わ れた。
 その後、自ら監督し、作品を完成させた(この際、結末が変更された)が、シュトロハイムと の契約の問題で、アメリカでは公開されなかった。
 (左の写真)『クィーン・ケリー』 ウォルター・バイロンと

 ・経営の苦しくなった製作会社に救いの手を差し出したのが、 大物政治家のジョセフ・P・ケネディ。第35代大統領(1961〜1963年)ジョン・F・ケネディの 父親である。スワンソンとケネディは不倫の関係にあったという。

 ・自身初のトーキー作品『トレスパッサー』(1929 年)で、再びアカデミー賞にノミネートされたが受賞ならず。
 1930年代に入ると主演映画がヒットせず、『Father Takes a Wife(1941年)を最後に銀幕か ら消え去り、女優としての活動は舞台に移った。 
 (右の写真)『Father Takes a Wife 』 
Father Takes a Wife

 ・1931年にド・ラ・ファレーズ侯爵と離婚。4度目の結婚(1931年〜1934年)、5度目の結婚(1945年〜1948年)と も長続きしなかった。

Sunset_Boulevard-2
 ・『サンセット大通り』(1950年/監督:ビリー・ワイルダーで、9年ぶりに銀幕復帰。
 ノーマ・デズモンド役は代表作となった。ラストの台詞、「デミル監督、クローズアップを - All right, Mr. DeMille, I'm ready for my close-up」は、AFI(アメリカ映画協会)が2005年に選出した 「アメリカ映画名セリフ・ベスト100」の第7位に選出された。
 (左の写真)『サンセット大通り』


youtube
 『サンセット大通り』  映画史に残る衝撃的な名ラスト・シーン



Demilie-Swanson-2
 ・ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞 (ドラマ部門)を受賞し、アカデミー賞でも本命視されていたが、受賞には至らなかった。オスカー像とは生涯縁がなかった。
 (左の写真)『サンセット大通り』 撮影時
  セシル・B・デミルと
 ・『サンセット大通り』の後、出演オファーが殺到したが、どれもノーマ・デズモンドと似たような役柄ばかりで、全て断ったという。以後の活動は、再び舞台とTVが中心となった。
 (右の写真)ビリー・ワイルダー監督と
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 ・『エアポート’75』(1974年)に 本人役で出演したのが、最後の映画出演となった。
 (左の写真)『エアポート’75』 カレン・ブラック(左)と

 ・1976年、作家と6度目の結婚。亡くなるまで連れ添った。

 ・1980年、自伝『Swanson on Swanson 』を出版。ベストセラーに。

  ・1983年84歳で他界。身長は150cmと小柄だったが、ハリウッドの‟巨星”として、銀幕の歴史に消えることのない輝きを残した。

映画評論家の淀川長治さんが面会した際、贅沢はみんな、デミル監督に教えられてしまったんですと話していたそうです。


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