20世紀・シネマ・パラダイス
サム・ウッド
Sam Wood
1883-1949(アメリカ)
◆
代表作
オペラは踊る
A Night at the Opera
(1935年/アメリカ)
マルクス一番乗り
A Day at the Races
(1937年/アメリカ)
チップス先生さようなら
Goodbye, Mr. Chips
(1939年/イギリス)
恋愛手帖
Kitty Foyle
(1940年/アメリカ)
打撃王
The Pride of the Yankees
(1942年/アメリカ)
誰が為に鐘は鳴る
For Whom the Bell Tolls
(1943年/アメリカ)
◆
幅広いジャンルでヒット作を撮ったハリウッドの大家の1人
・
1883年
、ペンシルベニア州生れ。不動産ブローカーをしていたが、1915年頃から映画界で働くようになった。
セシル・B・デミル
監督の『小米国人』
(1917年/主演:
メアリー・ピックフォード
)
、『夫を変へる勿れ』
(1919年/主演:
グロリア・スワンソン
)
等にエキストラ出演し、同監督の『何故妻を換へる?』
(1920年/主演:グロリア・スワンソン)
等で助監督を務めた。
・『
Double Speed
』
(1920年/主演:
ウォーレス・リード
)
で監督デビュー。以後、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ社
(後のパラマウント社)
で、ウォーレス・リードやグロリア・スワンソン主演の作品を数多く撮った。
(右の写真)『巨巌の彼方』(1922年)撮影時。左から、グロリア・スワンソン、
ルドルフ・ヴァレンチノ
、エリノア・グリン (作家)、サム・ウッド監督
・1927年、MGM社に移籍し、
ジーン・ハーロー
、
クラーク・ゲーブル
共演の『春の火遊び』
(1933年)
、
マルクス兄弟
の『オペラは踊る』
(1935年)
、『マルクス一番乗り』
(1937年)
等を大ヒットさせた。
(左の写真)マルクス兄弟とサム・ウッド監督
『オペラは踊る』
(1935年)撮影時
左から、ハーポ、グルーチョ、チコ、ウッド監督
『マルクス一番乗り』
(1937年)撮影時
左から、チコ、ウッド監督、ハーポ、グルーチョ
・イギリスで『チップス先生さようなら』
(1939年)
を監督。主演の
ロバート・ドーナット
にアカデミー賞主演男優賞をもたらした。作品賞、監督賞などにもノミネートされたが、
『風と共に去りぬ』
に敗れた。
(右の写真)『チップス先生さようなら』撮影時。ロバート・ドーナット(左)と
・『風と共に去りぬ』撮影中にダウンした
ヴィクター・フレミング
監督の代役として、同作の一部を監督した。
(左の写真)『風と共に去りぬ』撮影時。
レスリー・ハワード
(中央)、
ヴィヴィアン・リー
と。
2人の衣装から推測すると、ニューヨークへ行くというアシュレーを、スカーレットがウソ泣きで引き留めるシーン(
こちら
)を撮影したようです。
・『恋愛手帖』
(1940年)
では、ミュージカル女優から演技派への転身を図っていた
ジンジャー・ロジャース
に念願のオスカーをもたらした。
(右の写真)『恋愛手帖』撮影時。左から、ウッド監督、ジェームズ・クレイグ、スタッフ、ジンジャー・ロジャース
・サミュエル・ゴールドウィン社で監督した
『打撃王』
(1942年)
が大ヒット。同作の撮影が長引いたため、ウッド監督と主役の
ゲーリー・クーパー
は、次作
『誰が為に鐘は鳴る』
(1943年)
の撮影も掛け持ちでおこなった。
(左の写真)『打撃王』撮影時。ベーブ・ルース(左)、ゲーリー・クーパー(右)と
・古巣のパラマウント社で監督した『誰が為に鐘は鳴る』
(1943年)
は、その年の全米興行成績で第1位に。ウッド監督のキャリアで最大のヒット作となった。
(右の写真)『誰が為に鐘は鳴る』撮影時。
イングリッド・バーグマン
、ゲーリー・クーパー(右)と
・『打撃王』のクーパーと
テレサ・ライト
とは『クーパーの花婿物語』
(1944年)
で、『誰が為に鐘は鳴る』のクーパーとバーグマンとは『サラトガ本線』
(1945年)
で再び組んだが、どちらも1作目の出来を上回ることが出来なかった。
『クーパーの花婿物語』(1944年)撮影時
ゲーリー・クーパー(左)、テレサ・ライトと
『サラトガ本線』(1945年)撮影時
イングリッド・バーグマン、ゲーリー・クーパー、
1人飛ばしてウッド監督
『
Heartbeat
』(1946年)撮影時
ジンジャー・ロジャース(左)と
『
Ivy
』(1947年)撮影時
ジョーン・フォンテイン
と
・その後、野球選手の伝記映画第2弾『甦る熱球』
(1949年)
等を監督。
ロバート・テイラー
主演の西部劇『アパッチ族の最後』
(1949年)
が遺作となった。
(左の写真)『甦る熱球』撮影時。
ジェームズ・ステュアート
(左)、
ジューン・アリソン
と
・政治的には、当時のハリウッド映画人の中でも保守派の代表格の1人であり、「アメリカの理想を守るための映画同盟」(MPA)の初代代表を務め、
‟赤狩り”
にも積極的に協力した。
ハリウッドでの当初のキャリア等を鑑みても、重鎮セシル・B・デミルの弟分のような存在だったようである。
・アカデミー賞の監督賞には、『チップス先生さようなら』
、
『恋愛手帖』
、
『嵐の青春』
(1943年)
で3度ノミネートされ、同3作と『我等の町』
(1940年)
、『打撃王』、『誰が為に鐘は鳴る』の計6作が作品賞にノミネートされたが、いずれも受賞は逃した。
(右の写真)左から、ウッド監督、ゲーリー・クーパー、セシル・B・デミル
・
1949年
、
66歳
で他界。
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