20世紀・シネマ・パラダ
イス
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打撃王
The Pride of the Yankees
監督:サム・ウッド
(1942年/アメリカ)
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◆ ニューヨーク・ヤンキース伝説のプレーヤー ルー・ゲーリッグの伝記映画
ニューヨークの貧民街で生まれ育った野球好きのルー・
ゲーリッグは、
母親の夢である叔父のようなエンジニアになるため苦学して名門コロンビア大学に入学した。 |
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母親が大学の学生寮で賄い婦をしており、ルーは給仕のアルバイト
をしていた。ルーは大学の野球部でも活躍していたが、貧しい育ちの彼を馬鹿にする者もいた。ダンス・パーティーでの女性との会話を盗み聞きされ、それを愚
弄した学生と喧嘩になったこともあった。 |
ルーはスポーツ記者サム・ブレイクの
推薦でヤンキースにスカウトされたが、エンジニアになると言って断った。だが、病で倒れた母親を入院させるため、ヤンキースへの入団を決め、マイナーチー
ムのあるハートフォードへ行くことになっ
た。何も知らぬ母親は、ルーがハーバード大学へ編入するものと思い込み、泣いて喜んだ。 |
ルーはマイナーリーグでホームランを量産し、ヤンキースへの昇格が決まった。退院した母親
は、ルーが野球選手になったと知って機嫌を損ねていたが、
メジャー・デビューの日には夫と一緒に球場へ足を運んだ。 |
ルーは控え選手としてベンチを温めていたが、シカゴでの試合で代打として声がかかった。
ルーは勢い余ってベンチ前に並べてあったバットに足をとられ、尻餅をついた。その様子を見ていた観客席の女性客が「ズッコケたわ」
と叫んだことで、ルーに「ズッコケ野郎」との野次が飛んだ。ルーはメジャー初打席で見事にヒットを打った。 |
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その日の夜。ヤンキースのメンバーが食事をしているレストランに、「ズッコケたわ」
と叫んだ女性が現れた。彼女はシカゴのホットドッグ王の娘エレノア・トゥイッチェルだ。
ルーは彼女に足を引っかけ、尻餅をつかせた。エレノアはルーを睨みつけたが、彼の笑顔を見るうちに心が和み、おあいこ様ということで食事を共にした。
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サムの同僚の記者はルーの生真面目な生活態度を見てヒーローにはなれないと言ったが、サム
は
ルー・
ゲーリッグこそ万人を感動させる真のヒーローになると断言していた。
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ルーは全米各地を転戦して回っていたが、再びシカゴへ行く前にタキシードを新調した。
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シカゴでの試合後、ルーはサムの口添えでエレノアとデートをした。
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1928年、ヤンキースはカージナルスとのワールドシリーズに進出した。試合前、ヤンキー
スの主力選手たちはマスコミと一緒に闘病中のビリー少年を
見舞い、ベーブ・ルースがホームランを打つと約束した。ベーブ・ルースやマスコミが退席した
後、ルーは努力すれば何でも可能だと少年を励ましたが、ホームランを2本
打ってくれと頼まれてしまった。ルーはその頼みを受け合い、自分の足で歩いて家に帰れるまで努力することを少年に約束させた。
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ベーブとルーは1回表にアベック・ホームランを放った。しかし、
ルーは第2、第3打席とも3振してしまった。同点で迎えた9回、1打勝ち越しの場面でルーに打順が回ってきた。相手は敬遠策を採ってきたが、ルーはその4
球目を外野席へ叩き込んだ。
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ワールド・チャンピオンとなり、ニューヨークへ向かう汽車の中で、ルーはエレノアからの愛
を告白する電報を受け取った。彼は急遽シカゴへ向かい、エレノアにプロポーズした。
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ルーとエレノアは婚約し、結婚後に住む新居も決まったが、エレノアとルーの母親は、家具や
壁紙などを選ぶ際に意見がまるで合わなかった。見かねたルーが
母親に話をして、エレノアを立てることで一件落着した。
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ルーとエレノアは新居で
ささやかな結婚式を挙げた。その日も試合があるルーは、パトカーに先導されて球場入りし、祝砲となるホームランを打った。
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ルーは数々のタイトルや賞を獲得し、ベーブ・ルース引退(1935
年)後にはチームのキャプテンにも任命
された。エレノアとの夫婦関係は新婚当時と変わらず仲睦まじいものであった。
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1938年、ルーは2000試合連続出場という前人未到の大記録を達成したが、体の異変を
感じ始めていた。
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1939年、シーズン開幕前の春季キャンプ。ルーは体が思うように動かず苦悩して
いた。長年のチーム・メイトである捕手のビル・ディッキーは、ルーの様子がおかしいことに気づ
いていた。全体練習の終わった夕暮れのグランドで、1人ランニングをしているルーをエレノアが見守っていた。
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シーズンが開幕したが、ルーのプレーは散々なものであった。試合後のロッカールームで、
ルー
の陰口を吐いたチームメイトをビルが殴ったこともあった。ルーはスパイクの紐をほどく時にひっくり返ってしまうこともあった。
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1939年5月2日、ルーはスタメンから外れることを申し出た。14年間続いていた連続出
場記録は2130試合で途切れた。
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ルーは病院で精密検査を受けた。
ルー 「3ストライクですか?」。 医師 「3ストライクです…」。 ルー 「審判のジャッジは覆せない…」。
ルーは余命幾ばくも無いことを受け入れた。エレノアには伏せておくつもりだったが、彼女は察してしまった。
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1939年7月4日、引退セレモニーの日。ルーはネクタイを結べぬほど病状が悪化して
いた。
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エレノアは陽気に振る舞い、さりげなくネクタイを結んでやった。
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ルーが野球のタイトル・メ
ダルで作ったブレスレットをプレゼントされたエレノアは、堪え切れずにルーの胸で泣いた。
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ヤンキース球場には、病を克服して歩けるようになったビリー少年も駆けつけていた。
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ルーが
グランドに姿を現すと、超満員の観客はスタンディング・オベーションで彼を迎えた。
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引退セレモニー。ジョー・マッカーシー監督から「辞めるな」
とのメッセージが書かれた額などが贈られ、ニューヨーク市長、郵政長官、ベーブ・ルースがルーの業績を称えた。
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そして、ルーが引退のスピーチをする
ためマイクに向かった…。
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◆ 主な出演者など
・脚本家のニーヴン・ブッシュからルー・ゲーリッグの伝記映画の製作を薦められたサミュエル・ゴールドウィンは、野球については無知で、野球ファンは映画館よりも野球
場に足を運ぶだろうとして興味を示さなかった。しかし、ゲー
リッグの引退セレモニーのニュース映画を見せられると、涙を流して「もう一度見せてくれ」と言ったという。
(右の写真) 左から、サミュエル・ゴールドウィン、エレノア・ゲーリッグ、ゲーリー・クーパー
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・サミュエル・ゴールドウィンはエレノア夫人から3万ドルで映画化権を取得。ニーヴン・
ブッシュからの依頼で、当時人気No.1だったスポーツ記者のポール・ギャリコが原作を執筆し、ジョー・スワーリングとハーマン・J・マンキーウィッツが
脚色。監督にはベテランのサム・ウッドが起用された。
(左の写真)撮影時。左から、サム・ウッド監督、ゲーリー・クーパー
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・ゲーリー・クーパーは野球をしたことがなく、実際は右利きだったため文字を反対にし
たユニフォームを着て、右打ちで撮影したフィルムを裏返して使用したとの伝説があるが、実際に裏返しで撮影されたシーンはマイナーリーグ時代の1か所だ
けで、あとは左利きとして演じだ。クーパーの演技にはエレノア夫人も大満足だったという。 |
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・「野球の神様」
ベーブ・ルースの他、ルー・ゲーリッグの親友でもあったビル・ディッキーなど現役の選手も本人役として出演した。
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ゲー
リー・クーパーとベー
ブ・ルース |
ゲー
リー・クーパーとビ
ル・ディッキー |
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・テレサ・ライトは前述の脚本家ニーヴン・ブッシュと婚約中で、彼の推薦によりエレノア夫
人役
に起用された。
テレサ・ライトが亡くなった4ヶ月後に開催されたヤンキースのオールドタイマーズ・デー(2005年7月)で
は、往年の名選手と一緒に彼女の名前も読み上げられた。
(左の写真)
撮影時。ベーブ・ルースとテレサ・ライト
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・映画の中で使用されたブレスレットは、ルー・ゲーリッグがオールスターやワールドシリー
ズに出場した際の記念メダルで作り、エレノア夫人にプレゼントした本物であり、現在は野球殿堂博物館に展示されている。 |
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・サミュエル・ゴールドウィン社最大のヒット作(当時)
となり、アカデミー賞では、作品賞、主演男優賞、主演女優賞など11部門でノミネートされ、編集賞を受賞した。
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・AFI(アメリカ映画協会)が選定した各種のランキングで、次の通りランク入りした。 |
* 「アメリカ映画のヒーロー・ベスト50」(2003
年選定)の第25位
* 「アメリカ映画の名セリフ・ベスト100」(2005年選定)の第38位
『Today, I consider myself the luckiest man on the face of the
Earth. 今日、私はこの世で最も幸福な者だと思っています。』 |
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* 「勇気と感動のアメリカ映画ベスト100」(2006
年選定)の第22位
* 「アメリカ映画スポーツ映画ベスト10」(2008年選定)の第3位 |
・サム・ウッド監督、ゲーリー・クーパー、テレサ・ライトの3人は、2年後に
『クーパーの花婿物語』(1944年)で再び組んだ。
(右の写真)『クーパーの花婿物語』 ゲーリー・クーパーとテレサ・ライト |
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・サム・ウッドが野球選手の伝記映画第2弾として監督した『甦る熱球』(1949年)には、ビル・ディッキーが本人役として再び出演した。
ちなみに、ビル・ディッキーの背番号8は、ルー・ゲーリッグ、ベーブ・ルースと同様に永久欠番となっている。
(左の写真)『甦る熱球』撮影時。ジェームズ・ステュ
アート(中央)、ビル・ディッキー(右)
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◆ ‟ヤンキースの誇り” ルー・ゲーリッグ
Lou Gehrig
1903-1941
父親がてんかんを患っており、母親が生計を立てていた。
コロンビア大学在学中の1923年、母親が肺炎を患い、契約金で入院費を賄うためにヤンキースに入団。1925年から一塁手としてレギュラーに定着し
た。
1933年9月、エレノア・トゥイッチェルと結婚。
(右の写真)ルー・ゲーリッグとエレノア夫人 |
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・アメリカン・リーグMVP2回 … 1927年、1936年
・首位打者1回 … 1934年
・本塁打王3回 … 1931年、1934年、1936年
・打点王5回 … 1927年、1928年、1930年、1931年、1934年
(1934年は3冠王)
(左の写真)ルー・ゲーリッグ(左)とベーブ・ルース |
・通算安打 … 2721(歴代61位) ・通算本塁打 …
493(歴代28位) ・通算打点 … 1995(歴代5位) ・生涯打率 … 340(歴代13位) ・通算満塁本塁打 …
23(歴代2位) ・連続試合出場 … 2130(歴代2位) ( )内の数字は2015年現在のMLB記録。
「鉄の馬」(Iron Horse)と呼ばれ、背番号4はMLB史上初の永久欠番と
なった。筋萎縮性側索硬化症(通称:ルー・ゲーリッグ病)により、1939年に引退。2年後の1941年に37歳で他界した。
(右の写真)引退セレモニーでのルー・ゲーリッグとベーブ・ルース
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