20世紀・シネマ・パラダ イス

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Vivien Leigh

ヴィヴィア ン・リー

Vivien Leigh

1913-1967 (イギリス)


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     代表作

Gone_with_the_Wind
Waterloo Bridge
風と共に去りぬ
Gone with the Wind

(1939年/アメリカ)
哀愁
Waterloo Bridge

(1940年/アメリカ)
That Hamilton Woman
A Streetcar Named Desire
美女ありき
That Hamilton Woman

(1941年/イギリス)
欲望という名の電車
A Streetcar Named Desire

(1951年/アメリカ)

 
    映画史上最も名高きヒロイン、スカーレット・オハラ を見事に演じた英国人女優

 ・1913年、インドのダージリン(当時はイギリス領)生まれ。本名はVivian Mary Hartley
 父親は株式仲買人。母親(インド人の血が流れていたという説がある)は、胎児に美しさが宿るという伝承を信じて、妊娠中は毎朝15分ヒマラヤを見て過ごしていたという。ヴィヴィアンは6歳までダージリンで過ごした。
 (右の写真)母親とヴィヴィアン(2歳頃)
Vivien and Mother

Vivien_1922
 ・1920年、母親の意向で、イギリスのローハンプトンにあるカトリック女子修道院寄宿学 校に入学。在学中に女優となる夢を抱き始めた。2歳年上の学友には、後に女優となり、共演もしたモーリン・オサリヴァンがいた。
 (左の写真)1922年、9歳頃のヴィヴィアン

 ・1926年、両親と長期のヨーロッパ旅行に出立。パリ滞在中には、フランスの国立劇団「コメディ・フランセーズ」の女優から演技のレッスンを受けた。

 ・1931年、イギリスに帰国し、ロンドンの王立演劇学校へ入学。

 ・1932年、19歳の時に、弁護士のハーバート・リー・ホルマンと結婚。翌年、1人娘のスーザンを出産した。
with_Herbert_Leigh_Holman with_Suzanne
最初の夫、ハーバート・ リー・ホルマンと 娘のスーザンと

 ・1935年、『探し出されるもの』の 端役 (女学生役)で銀幕デビュー。
 結婚を機に演劇学校を退学し、家庭に入っていたが、女優となる夢を捨てられなかった。
 2作目の『田舎紳士』で、初めて銀幕に名前がクレジットされた。
 芸名の「Leigh」は夫のミドルネームから取り、「ViVian」 → Vivien」と綴りを変更している。この年、他に2本のイギリス映画に出演した。
 (右の写真)『田舎紳士』
The_Village_Squire

Mask_of_Virtue
 ・女優として初めて成功を収めたのは舞台だった。初舞台「The Green Sash」に出演後、主役に抜擢された「美徳の仮面」での演技が賞賛され、舞台を観たイギリス映画界の重鎮アレクサンダー・コルダの ロンドン・フィルム社と契約した。
 (左の写真) 舞台「美徳の仮面」出演時

 
・1936年、シェークスピア劇「リチャード二世」、「ヘンリー八世」等に出演。

 ・1937年、ロンドン・フィルム社での最初の作品 『無敵艦隊』で、イギリス演劇界のホープ、ローレンス・オリヴィエと初共演。 恋人役を演じた。
 『間諜』、『茶碗の中の嵐』に出演後、デンマークへ行き、舞台「ハムレット」でローレンス・オリヴィエと再共演。2人は恋に落ちた。
 (右の写真)『無敵艦隊』 ローレンス・オリビエと
Fire Over England

Dark_Journey
Storm_in_a_Teacup
『間諜』(1937年)
コンラート・ファイトと

『茶碗の中の嵐』(1937年)
レックス・ハリソン


A_Yank_at_Oxford  ・1938年、MGM社がイギリスで製作した『響け凱歌』に出演。主役はロバート・テイラー、ヒロインは、かつての学友モーリン・オサリヴァン。
 * モーリン・オサリヴァン … 『類猿人ターザン』(1932年)のヒロイン役で人気スターに。女優のミア・ファローの母親。
 (左の写真)『響け凱歌』 モーリン・オサリヴァン(左)、ロバート・テイラーと

 ・チャールズ・ロート ン、レックス・ハリソンと共演した『セント・マーティンの小径』の撮影後、アメリカへ。目的は2つ。『嵐ケ丘』(1939年/監督:ウィリアム・ワイラーの撮影でアメリカへ渡っ ていたローレンス・オリヴィエに会うため。もう1つは、原作を読んで以来熱望していた『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役を射止めるため。
 (右の写真)『セント・マーティンの小径』 チャールズ・ロートンと
Sidewalks_of_London

Scarlett_O'Hara
 ・ヒロイン役が未定のまま撮影がスタートしていた『風と共に去りぬ』 (1939年/監督:ヴィクター・フレミング
 ヴィヴィアンが、プロデューサーのデビッド・O・セルズニックと対面したのは、アトランタ炎上シーンの撮影現場。
 炎を見つめるヴィヴィアンを見たセルズニックは、「スカーレットはここにいた!」と、心の中で叫んだという伝説が残っている。
 (左の写真)『風と共に去りぬ』撮影時 
 ヴィヴィアンがスカーレット・オハラ役に決定したのは1938年のXマス。
 神経をすり減らしながらも、世紀の大役を見事に演じ切り、スカーレット・オハラは映画史上最も名高きヒロインとなった。
 (右の写真)『風と共に去りぬ』出演時
Gone with the Wind-2

Vivien_Leigh_Oscar
 ・1940年、ローレンス・オリヴィエと共演したイギリス映画『21日間』 公開。実は、『風と共に去りぬ』の前に撮影が済んでいた作品。
 ヴィヴィアンは、デビッド・O・セルズニック製作、ローレンス・オリヴィエ主演の『レベッカ』(1940年/監督:アル フレッド・ヒッチコックのスクリーン・テストを受けたが不合格だった。
 同年3月、アカデミー賞で主演女優賞を受賞。
 (左の写真)オスカー像を手にするヴィヴィアン・リー


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 第12回アカデミー賞。主演女優賞受賞のスピーチ



 ・ハリウッドで『哀 愁』(1940年/監督:マーヴィン・ルロイに出演。ヴィヴィアン本人が最も好きだった作品だとされ、彼女のファンの間でも、『風と共に去りぬ』と人気を2分するメロドラマの古典的名作。
 MGM社のスタジオには、一目ヴィヴィアンを見ようと見学者が殺到したという。彼女に憧れて、女優を志した人はごまんといるんでしょうね。
 (右の写真)『哀愁』 ロバート・テイラーと
Waterloo Bridge-2

 ・1940年5月、全米で『哀愁』が公開された時期、ブロードウェイの舞台「ロミオとジュリエット」で、ローレンス・オリヴィエと共演。そして、各々の離婚が成立した2人は8月に結婚した。

That Hamilon Woman-2 ・晴れて夫婦となったヴィヴィアンとローレンス・オリヴィエは、イギリス映画『美女ありき』(1941年/監督:アレクサンダー・コルダ)で共演。
 (左の写真)『美女ありき』 ローレンス・オリヴィエと

 ・第2次世界大戦中はイギリスで舞台に立ち、1943年には、英軍兵士を慰問するため北アフリ カ各地を回った。

 ・イギリス映画『シーザーとクレオパトラ』(1945年)の撮影中に妊娠していることが判明 したが、撮影後に流産してしまい、この頃から躁鬱病の症状が現れ始めたと言われている。
 (右の写真)『シーザーとクレオパトラ』クレオパトラに扮したヴィヴィアン
Caesar and Cleopatra

Anna Karenina ・戦後の第1作目は、イギリス映画『アンナ・カレニナ』(1948年/監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
 裕福な家庭に生まれ、上等な教育を受けたヴィヴィアンは、幼い頃からかなりの読書家で、トルストイは敬愛する作家の一人だった。
 (左の写真)『アンナ・カレニナ』 ラル フ・リチャードソン

 ・1948年、夫妻でオーストラリアとニュージーランドでの巡業公演に出立。舞台は成功 を収めたが、ヴィヴィアンは不眠症に悩まされ、夫婦はお互いの顔を平手打ちし合う喧嘩をするなど、亀裂が生じ始めたと言われている。

 ・1949年、ロンドンで、ローレンス・オリヴィエが舞台監督を務めたテネシー・ウィリア ムズの戯曲「欲望という名の電車」に出演。9ケ月間に及ぶロングランの大ヒットとなった。
 ハリウッドで製作された同作の映画(1951年/監督:エリア・カザンでは、当初オファーを受けたオリヴィア・デ・ハヴィランドが辞退。ヴィヴィアンがヒロインを 演じ、2度目のアカデミー賞主演女優賞の他、多くの賞を受賞した。
 (右の写真)映画版 『欲望という名の電車』 マーロン・ブランド
A Streetcar Named Desire-2

 ・『風と共に去りぬ』 に引き続き、アメリカ南部の女性を演じてオスカーを獲得したヴィヴィアン。この時のアカデミー賞授賞式は欠席し、グリア・ガースンが代理でオスカー像を受け取った。

 ・1951年から1952年にかけて、ロンドンとブロードウェイの舞台で、「アントニーとクレオパトラ」、「シーザーとクレオパトラ」 に夫婦で出演。

Elephant_Walk  ・1953年、ハリウッド映画『巨象の道』の撮影で、セイロン(現スリランカ) に出立したが、撮影途中に神経衰弱で倒れて降板。代役にはエリザベス・テイラーが起用された。
 共演のピーター・フィンチと不倫の関係になったと言われている。
 (左の写真)『巨象の道』の撮影に向かうヴィヴィアン
  ダナ・アンドリュース(左)、ピーター・フィンチ(右)と 
 * ピーター・フィンチ … 『ネットワーク』(1976年)での演技により、死後にアカデミー賞を受賞した最初の俳優としても有名。

 ・ヴィヴィアンは再起不能とも報道されたが、ロンドンの舞台「眠りの森の王子」(共演:ローレンス・オリヴィエ)で復帰。観客からはスタンディング・オベーションで迎えらた。

 ・1955年、イギリス映画『愛情は深い海の如く』(監督:アナトール・リトヴァクに出演し、イギリスの舞台で、シェークスピアの「十二夜」、「マクベス」等に夫婦で出演した。
 (右の写真)1955年の舞台「マクベス」ローレンス・オリヴィエと
Macbeth

 ・1956年、妊娠していることが判明。医師の了解を得て、舞台 「South Sea Buble」 に出演していたが、またしても流産。この時期、前夫のホルマンもローレンス・オリヴィエと協力してヴィヴィアンの面倒を看ていた。

Titus Andronicus
 ・1957年、シェークスピア劇「タイタス・アンドロニカス」のヨーロッパ巡業公演。ローレンス・オリヴィエとの最後の共演となった。
 (左の写真)舞台「タイタス・アンドロニカス」出演時。ローレンス・オリヴィエと

 

 ・1958年、ローレンス・オリヴィエと別居。「破局」とのニュースが流れた。ヴィヴィアンはロンドンの舞台「天使たちの決闘」に出演。

 ・1959年、ロンドンの舞台「ルルを求めて」に出演。

 ・1960年、ローレンス・オリヴィエとの離婚が成立。ブロードウェイの舞台「天使たちの決闘」に出演。

  ・1961年、ハリウッド映画『ローマの哀愁』に出演。
 (右の写真)『ローマの哀愁』  ウォーレン・ベイティ
The_Roman_Spring_of_Mrs._Stone

John_Merivale_(The_Lady_of_the_Camellias)-2
 ・1961年7月から翌年の5月まで、オーストラリア、ニュージーランド、ラテンアメリカ での巡業公演。
 ローレンス・オリヴィエに代ってヴィヴィアンを支えたのは、この巡業にも参加していた4歳年下の俳優ジョン・メリヴェール。結婚はしていなかったが、ヴィ ヴィアンが亡くなるまで生活を共にしていた。
 (左の写真)舞台 「椿姫」(1961〜1962)で共演した時のヴィヴィアンとジョン・メリヴェール

 ・1963年、ブロードウェイで、コメディ・ミュージカルの「Tovarich」に出演。ヴィヴィアンの歌とダンスは絶賛され、トニー賞のュージカル主演女優賞を受賞した。
 (右の写真)舞台「Tovarich」のダンスシーン
  

Tovarich

 ・躁鬱病の悪化と肺結核により、1年近く闘病生活を送った。ベティ・デイビス主演の『ふるえて眠れ』(1964年) への出演オファーを受けたが辞退。代わりにオリヴィア・デ・ハヴィランドが出演した。

Ship of Fools
 ・1965年、体調が回復し、ハリウッド映画『愚か者の船』(監督:スタンリー・クレイマーに出演。ヴィヴィアンの最後の映画となった。
 同年、イギリスで舞台「伯爵夫人」に出演。
 (左の写真) 『愚か者の船』 リー・マーヴィンと

 ・1966年、ブロードウェイの舞台劇「イワーノフ」に出演。ヴィヴィアンの最後の仕事となった。
 (右の写真)舞台「イワーニフ」共演のジョン・メリヴェールと
Ivanov

 ・1967年、結核が再発し、ロンドンのアパートで療養生活に。7月8日の深夜、帰宅したメリヴェールが倒れているヴィヴィアンを発見。既に息を引き取っていた。喀血が気管支に詰まっての窒息死だった。享年53歳。メリヴェールから通報を受けたローレンス・オリヴィエも駆けつけた。

Tickerage_Mill ・ヴィヴィアンの遺体は荼毘に付され、遺灰は彼女のお気に入りの場所だったイングランド 南東部にあるティッカレッジ・ミル湖に撒かれた。
 (左の写真)ティッカレッジ・ミル湖 
 かつてヴィヴィアンがメリヴェールと住んでいたコテージ

 ・ヴィヴィアン・リーが出演した映画は20本にも満たない (アカデミー賞受賞2回は高確率)。もっと多くの映画に出演して欲しかったが、本人はローレンス・オリヴィエとの舞台での共演を優先したのだろう。離婚後も、部屋には彼の写真が飾ってあったという。

 ・1999年AFI(アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」 で、女優部門の第16位に選出。

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ヴィヴィアン・リーが愛用していた香水。