20世紀・シネマ・パラダイス

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Anatole_Litvak

アナトール・リトヴァク

Anatole Litvak

1902-1974(ロシア/アメリカ)

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  ◆ 代表作

Mayerling
Sorry,_Wrong_Number
うたかたの恋
Mayerling
(1936年/フランス)
私は殺される
Sorry, Wrong Number
(1948年/アメリカ)
The_Snake_Pit
Anastasia
蛇の穴
The Snake Pit

(1948年/アメリカ)
追想
Anastasia
(1956年/アメリカ)
 

     ◆ 欧米で活躍したロシア出身の監督

 ・1902年、ロシア(現ウクライナ)のキエフ生れ。13歳の時にペトログラードに移住し、同地の大学で哲学と演劇を学んだ。劇団の俳優になり、映画の助監督も務めていたが、ソビエト連邦により劇場が国有化されたのを機にドイツへ移住した。
 * ペトログラード … 現サンクトペテルブルク。ペトログラード(1914〜1924年)、レニングラード(1924〜1991年) と呼ばれていた。

  ドイツ時代 (1925〜1933年)

 ・グレタ・ガルボが出演した唯一のドイツ映画『喜びなき街』(1925年/監督:G・W・パブスト)の編集を務めた他、脚本家、助監督として活動。一時期、フランスへ渡り、アベル・ガンス監督の『ナポレオン』(1927年)の助監督も務めた。

 ・『Dolly macht Karriere(1930年)で映画監督としてデビュー。日本でも公開された『女人禁制』(1931年)、『今宵こそは』(1932年)等を撮ったが、ナチス政権が成立(1933年)したのを機にフランスへ移住した。

  フランス時代 (1933〜1937年)

 ・アナベラ主演の『最後の戦闘機』(1935年)等を監督。オーストリア皇太子と男爵令嬢の心中事件を描いた『うたかたの恋』(1936年)が世界中で大ヒットして国際的な名声を確立。ハリウッドに招かれることとなった。
 (右の写真)『うたかたの恋』 シャルル・ボワイエダニエル・ダリュー
Mayerling-2

  ハリウッド時代 (1937年〜1949年)

All_this,_and_Heaven_Too
 ・ナチスのスパイ活動を告発したエドワード・G・ロビンソン主演の『戦慄のスパイ網』(1939年)、アカデミー賞の作品賞など3部門でノミネートされた『凡てこの世も天国も』(1940年)等を監督。アメリカの市民権を取得した。
 (左の写真)『凡てこの世も天国も』撮影時。シャルル・ボワイエ、ベティ・デイビス

 ・第2次世界大戦中は米国陸軍でフランク・キャプラ監督と共同で戦時ドキュメンタリー映画を監督。その功績により、戦後、米・英・仏の政府から勲章を授かった。

 ・1948年、ハリウッドでの代表作となる2作品を監督。
 フィルム・ノワールの傑作『私は殺される』は、主演のバーバラ・スタンウィックがアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。
 (右の写真)『私は殺される』撮影時。バーバラ・スタンウィックと
Sorry,_Wrong_Number-2

The_Snake_Pit
 ・もう1作は、精神病院に入院していた女性の自伝的小説を映画化したサスペンスの傑作『蛇の穴』。アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞(オリヴィア・デ・ハヴィランド等、6部門でノミネートされたが、受賞は録音賞のみに終わった。
 (左の写真)『蛇の穴』撮影時。左から、オリヴィア・デ・ハヴィランド、ロバート・バスラー(共同製作者)、メアリー・ジェーン・ウォード(原作者)、リトヴァク監督

  欧州時代 (1950年〜)

 ・1950年以降は、主に欧州で作品を撮った(大半はアメリカ資本のアメリカ映画)。第2次世界大戦中、ドイツに潜入した米軍の諜報部員が実話に基づいて執筆した小説を映画化した『暁前の決断』(1951年)は、アカデミー賞の作品賞、編集賞の2部門でノミネートされた。アメリカ映画だがドイツで撮影された作品。
 (右の写真)『暁前の決断』 ヒルデガルド・クネフ、オスカー・ウェルナー
Decision_before_Dawn

The_Deep_Blue_Sea
 ・フランスでカーク・ダグラス主演の『想い出』(1953年)を撮った後、イギリスで『愛情は深い海の如く』(1955年)を監督。ヴィヴィアン・リーの4年ぶりの映画だったが、作品の評価は芳しくなかった。
 (左の写真)『愛情は深い海の如く』撮影時。ヴィヴィアン・リーと

 ・イングリッド・バーグマンの7年ぶりのハリウッド映画『追想』(1956年)を監督。バーグマンに2度目のアカデミー賞主演女優賞をもたらした。イギリス、フランスなど欧州で撮影された作品。
 (右の写真)『追想』撮影時。イングリッド・バーグマン、ユル・ブリンナー(右)と
Anastasia

Mayerling_1957
 ・アメリカでTVドラマ「マイヤーリング」(1957年)を監督。自身の出世作『うたかたの恋』のリメイクで、当時夫婦だったオードリー・ヘップバーンとメル・ファーラーが主演。カラー作品として放送されたが、日本では2014年にモノクロ版が劇場公開された。
 (左の写真)「マイヤーリング」撮影時。左から、リトヴァク監督、ジュディス・イヴリン、メル・ファーラー、オードリー・ヘップバーン

 ・オーストリアでデボラ・カー、ユル・ブリンナー主演の『旅』(1959年)を撮った後、再びイングリッド・バーグマンと組み、フランスで『さよならをもう一度』(1961年)を監督。
The_Journey
Goodbye_Again
『旅』(1959年)撮影時
デボラ・カーと

『さよならをもう一度』(1961年)撮影時
左から、イングリッド・バーグマン、アンソニー・パーキンス
フランソワーズ・サガン(原作者)、リトヴァク監督、イヴ・モンタン

 ・フランスでソフィア・ローレン主演の『真夜中へ五哩』(1962年)、ポーランド、フランス等でピータ・オトゥール主演の『将軍たちの夜』(1967年)を撮り、フランスでサマンサ・エッガー主演の『殺意の週末』(1970年)を撮ったのが最後となった。
 (右の写真)『真夜中へ五哩』撮影時。ソフィア・ローレンと
Le_couteau_dans_la_plaie

 ・ハリウッド時代以降、大半の作品は製作も兼ねていたが、多くの人気俳優たちをキャスティ ングできたのはリトヴァク監督のステータスの証しでもある。日本において、恐らく外国人女優の人気トップ・スリーであるヴィヴィアン・リー、イングリッ ド・バーグマン、オードリー・ヘップバーンの3人を監督したのは、女性映画の名手ジョージ・キューカーとリトヴァクだけである。
 * ジョージ・キューカー … ヴィヴィアン・リーの『風と共に去りぬ』は途中で解任された。

 ・私生活では、ハリウッドでの最初の作品『The Woman I Love(1937年)のヒロインだったミリアム・ホプキンスと結婚したが2年で離婚(1937-1939年)。リトヴァク監督が『凡てこの世も天国も』(1940年)の撮影中に主演のベティ・デイビスと不倫をしたことが原因とも言われている。その後、1955年に再婚した相手とは、自身が亡くなるまで連れ添った。

 ・1974年72歳で他界。晩年はフランスで暮らしていた。


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