20世紀・シネマ・パラダ イス
イヴ・モンタン
Yves Montand
1921-1991(イタリア/フランス)
◆
代表作
恐怖の報酬
Le Salaire de la Peur
(1953年/フランス)
Z
Z
(1969年/アルジェリア・フランス)
仁義
Le Cercle Rouge
(1970年/伊・仏)
愛と宿命の泉
Jean de Florette
(1986年/フランス)
◆
戦後のフランスを代表するエンターテイナー
・
1921年
、イタリアで生れたが、両親がムッソリーニのファシスト政権
(1922年成立)
を嫌って、1923年にフランスのマルセイユへ移住した。
マルセイユのミュージック・ホールで歌っていたところ、人気歌手のエディット・ピアフに見出され、パリへ進出。ピアフとは数年間恋人同士だった。
(右の写真)エディット・ピアフと
・エディット・ピアフ主演の『光なき星」
(1946年)
で銀幕デビュー。2作目『夜の門』
(1946年/監督:
マルセル・カルネ
)
の中で彼が歌った「枯葉」は、その後、人気歌手のジュリエット・グレコが歌い大ヒット。シャンソンを代表する1曲となった。
(左の写真)『夜の門』 ナタリー・ナッテイエと
・1951年、女優の
シモーヌ・シニョレ
と結婚。俳優としてのキャリアは彼女の方が上だった。
(右の写真)シモーヌ・シニョレと
・初の主演映画
『恐怖の報酬』
(1953年/監督:
アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
)
が世界中で大ヒットし、国際的な人気スターとなった。
(左の写真)『恐怖の報酬』 シャルル・ヴァネル(左)と
・1959年、アメリカへ進出。ブロードウェイでリサイタルを行い、ハリウッド・デビュー作『恋をしましょう』
(1960年/監督:
ジョージ・キューカー
)
、『さよならをもう一度』
(1961年/監督:
アナトール・リトヴァク
)
等に出演。
『サレムの魔女』(1957年)
シモーヌ・シニョレと
『恋をしましょう』(1960年)
マリリン・モンロー
と
『さよならをもう一度』(1961年)
イングリッド・バーグマン
と
『青い目の蝶々さん』(1962年)
シャーリー・マクレーン
と
・日本ロケを敢行した『青い目の蝶々さん』出演後、フランスへ戻り、オールスター・キャストの『パリは燃えているか』
(1966年/監督:
ルネ・クレマン
)
、『グラン・プリ』
(1966年/監督:ジョン・フランケンハイマー)
、『パリのめぐり逢い』
(1967年/監督:クロード・ルルーシュ)
等に出演。
(右の写真)『パリのめぐり逢い』 キャンディス・バーゲンと
・実際の政治的事件を題材にしたコスタ=ガヴラス監督の3部作『Z』、『告白』
(1969年)
、『戒厳令』
(1972年)
に出演。
モンタンの父親は共産主義者で、彼も左翼の政党を支持し、政治活動にも積極的だった。1955年に仏ソ文化協定が結ばれると、翌1956年に妻のシモーヌ・シニョレとソ連を訪れ、リサイタルを開催するなどした。
(左の写真)『Z』
『仁義』(1970年/監督:ジャン=ピエール・メルヴィル)
『うず潮』(1975年)
カトリーヌ・ドヌーヴ
と
・1985年、シモーヌ・シニョレが他界。
『恋をしましょう』の撮影時に、モンタンとマリリン・モンローのアバンチュールが取りざたされたこともあったが、シモーヌ・シニョレが亡くなるまで連れ添った。
(右の写真)シモーヌ・シニョレと
・『愛と宿命の泉』
「PART1 フロレット家のジャン」、「PART2 泉のマノン」
(1986年)
は、晩年の代表作となった。
(左の写真)『愛と宿命の泉』
・1987年、38歳年下のアシスタントと再婚し、翌年、67歳で初めての子供を授かった。
・
1991年
、遺作となった『IP5/愛を探す旅人たち』
(1992年/監督:ジャン=ジャック・ベネックス)
の撮影後、心臓発作により
70歳
で他界。
・1994年、伝記ドキュメンタリー『モンタン、パリに抱かれた男』が公開された。
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