20世紀・シネマ・パラダイス

startbar
Edward G. Robinson

エドワード・G・ロビンソン

Edward G. Robinson

   
1893-1973 (ルーマニア/アメリカ)


starbar


     代表作
 
Little Caesar Tales of Manhattan
犯罪王リコ
Little Caesar
(1931年/アメリカ)
運命の饗宴
Tales of Manhattan
(1942年/アメリカ)
Double Indemnity The_Woman_in_the_Window
深夜の告白
Double Indemnity

(1944年/アメリカ)
飾窓の女
The Woman in the Window
(1944年/アメリカ)
Key_Largo-3
The_Ten_Commandments-2
キー・ラーゴ
Key Largo
(1948年/アメリカ)
十戒
The Ten Commandments
(1956年/アメリカ)


    ギャング・スターとして名を成した性格俳優

 ・1893年、 ルーマニアにて、ユダヤ人の両親の子として生まれた。兄弟の1人が反ユダヤの暴徒に襲われたことがきっかけで、彼が10歳の時に家族でニューヨークへ移 住した。
 弁護士を目指してニューヨーク市立大学シティカレッジに入学したが、演劇に魅了され、奨学金を得てアメリカン演劇アカデミーで演技を学んだ。

 ・舞台「Under Fire(1915年)でブロードウェイ・デビュー。1910〜1920年代の映画出演は、『Arms and the Woman(1916年)、『ブライト・ショール』(1923年)、『壁の穴』(1929年)の3本だけで、舞台での活動に専念していた。

 ・1927年、女優のグラディス・ロイドと結婚。
 
1933年に長男エドワード・G・ロビンソン・ジュニアを授かった。
 (右の写真)妻のグラディス・ロイドと
with_Gladys_Lloyd

 ・1930年代に入ると本格的に映画界に進出。10本目で主役に抜擢された『犯罪王リコ』(1931年/監督:マーヴィン・ルロイ) が大ヒット。1930年代のギャング映画ブームの立役者の1人となった。
Little_Caesar-2Smart Money
『犯罪王リコ』(1931年) 『夜の大統領』(1931年)
ジェームズ・キャグニー(右)と

 ・演技達者で、ギャング映画以外でも性格俳優として活躍。
Barbary_Coast
Kid_Galahad
『バーバリー・コースト』(1935年/監督:ハワード・ホークス
ミリアム・ホプキンス
『倒れるまで』(1937年/監督:マイケル・カーティス
ベティ・デイビス

 ・反ナチスの活動にも取り組み、ナチス・ドイツ占領下のフランスから渡米してきたジュリアン・デュヴィヴィエ監督や、ユダヤ系であるためドイツから亡命してきたフリッツ・ラング監督の作品にも出演。8ケ国語を話すことが出来たという。
Manpower Tales_of_Manhattan-2
『大雷雨』(1941年/監督:ラオール・ウォルシュ
ジョージ・ラフト(左)、マレーネ・ディートリッヒ

『運命の饗宴』(1942年/監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ)
ジョージ・サンダース(左)と

Double_Indemnity-2
The_Woman_in_the_Window-2
『深夜の告白』(1944年/監督:ビリー・ワイルダー
フレッド・マクマレー(左)と

『飾窓の女』(1944年/監督:フリッツ・ラング)
ジョーン・ベネット

Scarlet_Street
The_Stranger
『緋色の街 スカーレット・ストリート』(1945年/監督:フリッツ・ラング)
ジョーン・ベネットと

『ストレンジャー』(1946年/監督:オーソン・ウェルズ
オーソン・ウェルズ(左)と


 ・戦後、ハリウッドに赤狩りの嵐が吹き荒れると、反ナチスの活動と共産主義との関係が疑われた。ブラック・リストに名前を挙げられ、下院非米活動委員会の公聴会に招集された。そのことが影響して、映画で与えられる役は小さいものへとなっていった。 
Key_Largo-4
House_of_Strangers
『キー・ラーゴ』(1948年/監督:ジョン・ヒューストン
ハンフリー・ボガート(左)と

他人の家』(1949年/監督:ジョセフ・L・マンキーウィツツ
 * カンヌ映画祭主演男優賞受賞


Edward G. Robinson-4  ・私生活では、絵画等美術品のコレクターとして有名だったが、1956年、離婚に伴う慰謝料を捻出するため、300万ドル以上(当時)で手放して大きな話題となった。
 (左の写真)コレクションの絵画を手にするエドワード・G・ロビンソン

 ・1958年、ファッション・デザイナーと再婚。
 1人息子のエドワード・G・ロビンソン・ジュニアも俳優となり、TV「The DuPont Show of the Week(1962年)では親子で共演した。
 (右の写真)エドワード・G・ロビンソン親子

 * エドワード・G・ロビンソン・ジュニア … 主にTVで活動していたが、父の死の1年後、心臓発作により40歳で他界。
with_Jr.

 ・1956年、26年ぶりにブロードウェイに復帰。主演舞台「Middle of the Night 」は、1年以上のロングランとなる大ヒットとなった。そして、セシル・B・デミル監督の『十戒』(1956年)で、銀幕でも再び脚光を浴びた。
The_Ten_Commandments
A_Hole_in_the_Head
『十戒』(1956年)
デブラ・パジェット、ジョン・デレク(右)と

『波も涙も暖かい』(1959年/監督:フランク・キャプラ
フランク・シナトラ(中央)と


My_Geisha
 ・『青い目の蝶々さん』(1961年/主演:シャーリー・マクレーンの撮影で来日もした。
 (左の写真)『青い目の蝶々さん』シャーリー・マクレーンと

 ・ポーカーの「ザ・マン(第一人者)」を好演した『シンシナティ・キッド』(1965年/監督:ノーマン・ジェイソン)は、晩年の代表作の1つとなった。同作と『シャイアン』(1964年/監督:ジョン・フォードは、病に倒れたスペンサー・トレイシーの代役としての出演だった。

 ・1973年、100本目の映画だったSFスリラー『ソイレント・グリーン』(死後公開)の撮影後、79歳で他界。
The_Cincinnati_Kid
Soylent Green-2
『シンシナティ・キッド』(1965年)
スティーブ・マックイーン
『ソイレント・グリーン』(1973年)
 チャールトン・ヘストン

Soylent Green-3
 ・亡くなってから2ヶ月後に開催されたアカデミー賞において名誉賞が贈呈された。コンペ部門の賞ではないため、受賞は事前に知らされており、本人は授賞式を楽しみにしていたという。
 チャールトン・ヘストンがプレゼンターを務め、夫人が代理人としてオスカー像を受け取った。
 (左の写真)『ソイレント・グリーン』の撮影時。映画出演100本を祝うケーキに入刀するエドワード。右はチャールトン・ヘストン。

 ・AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝説のスター・ベスト50」で、男優部門の第24位に。


Edward G. Robinson-2
Edward G. Robinson-3


HOME