20世紀・シネマ・パラダイス

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Carole Lombard

キャロル・ロンバード

Carole Lombard

1908-1942 (アメリカ)


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   代表作

Twentieth Century
 特急二十世紀 
  Twentieth Century
  (1934年/アメリカ)
Now_and_Forever
 久遠の誓い
 Now and Forever
  (1934年/アメリカ)
My Man Godfrey
 襤褸と宝石
  My Man Godfrey
  (1936年/アメリカ)
To_Be_or_Not_to_Be
 生きるべきか死ぬべきか
 To Be or Not to Be
  (1941年/アメリカ)
 
   元祖 ‟スクリューボール・コメディの女王”

 ・1908年、インディアナ州生れ。本名は Jane Alice Peters 。6歳の時に両親が不仲となり、母親と2人の兄と共にロサンゼルスへ移住。両親は別居をしたが離婚はせず、父親から財政的な支援を受けていた。

 ・子供頃はスポーツ好きのお転婆で、12歳の時に、男の子と一緒に野球をしているところをアラン・ドワン監督にスカウトされ、同監督の 『陰陽の人』 (1921年) に出演した。
  (右の写真) 12歳の時に1本だけ出演した 『陰陽の人』
A Perfect Crime
 ・『陰陽の人』 出演後は普通の学生生活を送っていたが、15歳の時、高校のカーニバルの日にスカウトされ、チャップリン『黄金狂時代』 のスクリーン・テストを受けた。結果は不合格だったが、映画女優を志すきっかけとなった。

Bathing Beauties  ・1924年、16歳の時に高校を辞め、FOX社と契約。芸名を Carol Lombard  として 『Marriage in Transit (1925年) で本格的な銀幕デビュー。
 『勇猛果敢』 (1925年)など数本の作品に出演したが、1926年に交通事故で左頬を傷つけ、傷跡は整形手術とメイクで目立たないようになったが、FOX社との契約を破棄されてしまった。

 ・1927年、喜劇映画の第一人者マック・セネットの会社と契約。
 同社の名物であった 「水着美人」 の一人として、数多くの短編喜劇映画に出演した。

 ・その後、パテ社で自身初のトーキー作品 『High Voltage (1929年) 等に出演。
 古巣のFOX社で 『アリゾナ怪盗異聞』 (1930年) に出演した後、パラマウント社と契約した。
  (右の写真) 『High Voltage
High_Voltage

Safety_in_Numbers
 ・パラマウント社での最初の作品 『令嬢暴力団』 (1930年) に出演した際、「Carol 」 を誤って 「Carole 」 と表記されたが、彼女はこの綴りを気に入り、以後 Carole Lombard  で通すこととなった。
  (左の写真) 『令嬢暴力団』 一番左がキャロル・ロンバード

Ladies'_Man
I Take This Woman
『成金ボーイ ニューヨークへ行く』 (1931年) ウィリアム・パウエル
『失われた抱擁』 (1931年) ゲーリー・クーパー

 ・1931年、22歳の時に、『街の紳士』、『成金ボーイ ニューヨークへ行く』 で共演したウィリアム・パウエルと結婚。
 元々、彼女がウィリアム・パウエルのファンであったという。
 しかし、年の差16歳の結婚は、26ケ月後に終止符を打った。
  (右の写真) 最初の夫ウィリアム・パウエルと。
with William Powell

No Man of Her Own The_Eagle_and_the_Hawk
『心の青空』(1932年)
 クラーク・ゲーブル
『鷲と鷹』 (1933年)
 ケーリー・グラント(左)、フレドリック・マーチ(後)と
Bolero
We're_Not_Dressing
『ボレロ』 (1934年) ジョージ・ラフト 『恋と胃袋』 (1934年) ビング・クロスビー

Twentieth Century-2  ・またいとこハワード・ホークス監督からオファーがあり、コロンビア社で 『特急二十世紀』 (1934年) に出演。
 彼女のコミカルな演技は絶賛され、‟スクリューボール・コメディの女王” との称号を得た。尚、ホークス監督のデビュー作 『栄光への道』 (1926年) にも脇役で出演している。
  (左の写真) 『特急二十世紀』 ジョン・バリモア

Now_and_Forever
Hands Across thr Table
『久遠の誓い』 (1934年/監督:ヘンリー・ハサウェイ
ゲーリー・クーパー、シャーリー・テンプル
『春を手さぐる』 (1935年)
フレッド・マクマレー

 ・出演の決まっていた 『オペラハット』 (1936年) を撮影直前に辞退し、スクリューボール・コメディ 『襤褸と宝石』 (1936年) で、元夫のウィリアム・パウエルと共演。2人揃ってアカデミー賞の主演賞にノミネートされた。
  (右の写真) 『襤褸と宝石』 ウィリアム・パウエルと
My Man Godfrey

 ・ハリウッド女優で人気、ギャラともトップクラスとなったキャロル。大統領の5倍 以上とも言われた彼女の収入が報道された時、「収入の80%が税金だが、国の改善に役立てて嬉しい…」 とのコメントを出し、時のルーズベルト大統領 から個人的な感謝の手紙が届いたとのエピソードも。

Nothing Sacred
 ・『無責任時代』 (1937年) は、キャロルの唯一のカラー作品で彼女のお気に入りの1本。
 『風と共に去りぬ』 の大プロデューサー、デビッド・O・セルズニックがキャロルのために製作したと言われているコメディ。
  (左の写真) 『無責任時代』 フレドリック・マーチ

 ・1939年、クラーク・ゲーブルと再婚。
 『心の青空』 (1932年)で共演した後、1936年に、あるパーティーで再会し、交際が始まっていた。
 結婚後、ラオール・ウォルシュ監督からロス郊外の牧場を購入し、馬や鶏、犬、猫などを飼って生活していた。
Gable Lombard

Gable_Lombard-2.
Gable_Lombard-3 Gable_Lombard-4

 ・キャロルはアカデミー賞を熱望しており、オスカーを狙ってシリアスな恋愛ドラマを選んで出演していたが、興行的には振るわなかった。
Made for Each Other
In_Name_Only
『貴方なしでは』 (1939年) ジェームズ・ステュアートと In Name Only 』 (1939年) ケーリー・グラント

 ・3年ぶりのコメディ 『スミス夫妻』 (1941年) では、彼女の要望でアルフレッド・ヒッチコックが監督を務めた。そして、彼女の憧れの監督であったというエルンスト・ルビッチ監督の 『生きるべきか死ぬべきか』 (1941年)に出演。最後の作品となった。
Mr._&_Mrs._Smith
To Be or Not to Be-2
『スミス夫妻』 ロバート・モンゴメリーと
『生きるべきか死ぬべきか』 ジャック・ベニーと

Lombard_1942
 ・1942年1月、 キャロルは母親等と共に、戦時国債の公募キャンペーンの為に故郷のインディアナへ。列車でロスへ戻る予定だったが、彼女が早く帰りたが り、飛行機に乗ることになったとも言われている。その飛行機がラスベガス近郊で墜落し、搭乗者全員が死亡。キャロルは享年33歳だった。
  (左の写真) 戦時国債公募キャンペーン活動中のキャロル
 ・死後、ルーズベルト大統領から大統領自由勲章が授与された。

 ・クラーク・ゲーブルはその後2度再婚したが、彼の生前の希望により、遺体はキャロル・ロンバードの横に埋葬されている。
  (右の写真) クラーク・ゲーブルと
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Carole Lombard-2
Carole Lombard-3

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