20世紀・シ ネマ・パラダイス

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リリアン・ ギッシュ

Lillian Gish

1893-1993(アメリカ)


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     代表作

The_Birth_of_A_Nation
intolerance-5
國民の創生
The Birth of a Nation
(1915年/アメリカ)
イントレランス
Intolerance
 (1916年/アメリカ)
brokenblossoms-3
Way_Down_East
散り行く花
Broken Blossoms
(1919年/アメリカ)
東への道
Way Down East
(1920年/アメリカ)
Orphans_of_the_Storm
The_Wind-2
嵐の孤児
Orphans of the Storm
 (1921年/アメリカ)

The Wind
(1928年/アメリカ)
The_Night_of_the_Hunter-2
hewhalesofaugust-3
狩人の夜
The Night of the Hunter
(1955年/アメリカ)
八月の鯨
The Whales of August
(1987年/アメリカ)


    サイレント・スクリーンのファースト・レディ

 ・1893年、オハイオ州生れ。5年後に妹のドロシーが生まれた。
 父親が大酒飲みでほとんど家におらず、母親のメアリーが舞台女優などをしながら家計をやりくりして、リリアンも6歳の時から舞台に立っていた。父親の死後、家族3人でニューヨークへ移った。
 (右の写真)左から、リリアン、メアリー、ドロシー
Mary_Gish

lillian-pickford ・1912年、友人のメア リー・ピックフォードを訪ねにバイオグラフ社へ行った際、D・W・グ リフィス監督を紹介され、その日から撮影に入ったとも言われている。
 (左の写真)メアリー・ピックフォード (右)と

 ・グリフィス監督の『見えざる敵 』(1912年)で、妹のドロシーと一緒に銀幕デビュー。当初、グリフィス監督は姉妹の見分けがつかず、2人は色違いのリボンをつけて撮影した。2作目の『Two Daoughters of Eve(1912年)には、家族3人揃って出演した。
An Unseen EnemyThe Birth of Nation-2
 『見えざる敵 』(1912年)
妹のドロシー(手前)と
『國民の創生』 (1915年)

 ・グリフィス監督を「アメリカ映画の父」たらしめたエポックメイキングな2作品、『國民の創生』(1915年)『イントレランス』(1916年)にも出演した。
Broken Blossoms-4True_Heart_Susie
『散り行く花』(1919年)
リチャード・バーセルメスと
『スージーの真心』(1919年)
ロバート・ハーロンと

 ・『東への道』(1920年)で氷上に横たわるシーンの撮影時に右手に凍傷を負い、後遺症は生涯消えることがなかったという。グリフィス監督作品の多くで名演技を披露。「サイレント・スクリーンのファースト・レディ」と称される大女優になった。『嵐の孤児』(1921年)がグリフィス監督との最後の作品となった。
Way Down East-2 Orphans of the Storm-2
『東への道』(1920年)
リチャード・バーセルメスと
『嵐の孤児』(1921年)
 ドロシー (左)と

 ・生涯で1作だけ、『亭主改造』(1920年)を監督。主演はドロシーと、ドロシーの当時の夫 ジェームズ・レニー。グリフィス監督が影ながら撮影をサポートした。
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griffith-3

ドロシー (左)、グリフィス監督と

 ・ヘンリー・キング監督の『ホワイト・シスター』(1923年)、『ロモラ』(1924年)に出演。2作ともイタリアで撮影された。
White Sister Romola
『ホワイト・シスター』(1923年)
 ロナルド・コールマン
『ロモラ』(1924年)
ウィリアム・パウエル


 ・帰国後、MGM社と契約し、5作品に出演。『ラ・ボエーム』(1926年/監督:キング・ヴィダーの撮影時には、共演のジョン・ギルバートがリリアンに夢中になり、故意に失敗して何度もラブ・シーンを演じたとのエピソードも。
La BohemeThe_Scarlet_Letter
『ラ・ボエー ム』(1926年)
ジョン・ギルバートと
『真紅の文字 / 緋文字』(1926年)

 ・『真紅の文字 / 緋文字』(1926年)と『風』(1928年)は、 「スウェーデン映画の父」と称されたビクトル・シェストレム監督の作品。『風』は、リリアンが映画化を望んだ作品だったが、社の方針により結末がハッピーエンドに変えられた。後年フランスで再評価され、サイレント期の傑作とされているが、公開当時は興行的に失敗作となり、リリアンはMGM社との契約を終了した。
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The_Wind
『アンニー・ローリー』(1927年) 『風』(1928年)

Hamlet_1936.
 ・自身初のトーキー『白鳥』(1930年)、 『彼の二重生活』(1933年)に出演した後は、銀幕から遠ざかり、舞台で活動。
 名優ジョン・ギールグッドと共演した「ハムレット」(1936年)等に出演した。
 (左の写真)舞台「ハムレット」 ジョン・ギールグッドと

 ・『暁の勝利』(1942年)で9年ぶりに銀幕復帰。『白昼の決闘』(1946年/監督:キング・ヴィダー)で、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。
Duel in the Sun The Night of the Hunter
『白昼の決闘』(1946年)
ジェニファー・ジョーンズ
『狩人の夜』(1955年/監督:チャールズ・ロートン

 ・1950年代以降はTVでも活躍。大親友だったヘレン・ヘイズとも共演。リリアンはヘイズの息子(1937年生)の名付け親であり、自分が死んだ後は財産を託している。
The_Unforgiven-2 Arsenic_and_Old_Lace-2
『許されざる者』(1960年/監督:ジョン・ヒューストン
オードリー・ヘップバーン
TV「毒薬と老嬢」(1969年)
ヘレン・ヘイズ(中央)と


 ・1969年、自伝「映画とグリフィスと私」を出版。グリフィス監督にオマージュを捧げた。
 (右の写真)自伝を手にするリリアン・ギッシュ
Lillian Gish 1969


youtube
 ・1971年、アカデミー賞名誉賞を受賞。プレゼンターはメルヴィン・ダグラス



1973
 ・フランソワ・トリュフォー監督が、リリアンとドロシーに捧げた 『映画に愛を込めて アメリカの夜』(1973年)が公開。
 映画の中では、ギッシュ姉妹のデビュー作『見えざる敵』の映像が使用された。尚、ドロシーは1968年に70歳で亡くなっている。
 (左の写真)左から、ジャクリーン・ビセット、ジョン・リンゼイ (NY市長)、リリアン、フランソワ・トリュフォー

 ・1984年、AFI(アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞。女優ではベティ・デイビスに次いで2人目だった。
 (右の写真)AFI生涯功労賞受賞時
Lillian Gish AFI

 ・『八月の鯨』(1987年/監督:リンゼイ・アンダーソン)が最後の映画となった。
The Whales f August-2
 映画女優としてのキャリアは75年に及んだ。
 撮影時は93歳。14歳年下のベティ・デイビスの妹を演じた。
 2人のファースト・レディの夢の共演。淀川長治さんは、「この世で2人が共演するとは思いもよらなかった…」とコメント。
 (左の写真)『八月の鯨』 ベティ・デイヴィス(右)と

 ・1988年、EMIスタジオで録音されたミュージカル 「ショウボート」のCDに出演したのが最後の仕事となった。最後の台詞は「おやすみなさい」だった。

 ・1993年99歳で他界。
 結婚は女性にとって1つのキャリアであり、女優のキャリアとの両立は自分には出来ない、と生涯独身を通した。

 ・AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝説のスター・ベスト50」の女優部門で第17位に選出。
 (右の写真)1971年のアカデミー賞授賞式で。この‘’とした美しさ
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